伊坂村(読み)いさかむら

日本歴史地名大系 「伊坂村」の解説

伊坂村
いさかむら

[現在地名]栗橋町伊坂・きた一―二丁目

栗橋宿の西に位置し、村の西を古利根川が流れる。古利根川沿いに古堤・締切堤がある。村内を鎌倉街道であったと伝える古道と、日光御廻おまわり道が通る。天文五年(一五三六)五月二八日銘の鰐口(尾板家蔵)に「下総州下河辺庄下井坂郷」とみえる。同二三年足利梅千代王丸(義氏)が野田左衛門大夫に安堵した所領のなかに上伊坂・下伊坂が記される(同年一二月二四日「足利梅千代王丸印判状」野田文書)

伊坂村
いさかむら

[現在地名]旭志村伊坂

合志こうし川流域の細長い浅い谷間へ矢護やご川が西流して合流する付近で、集落の南側後背地は畑作地帯。現旭志村の最西端にあたる。天文一四年(一五四五)一一月二六日の肥後国内斎藤長実知行分坪付案(大友家文書録)に「井坂四町分」とみえ、大友義鑑は当村内四町分の所領などを斎藤長実に与えた。慶長四年(一五九九)一〇月一八日、加藤清正は安部五兵衛に当村のうちから一三〇石の所領を与えた(「加藤清正判物」阿部文書)。同九年九月の検地帳では名請人三三人(うち屋敷持七)、田一二町三反余、畠・屋敷合四一町五反、分米三八〇石七斗余。

伊坂村
いさかむら

[現在地名]四日市市伊坂町

朝明あさけ川の北岸、朝日あさひ丘陵に接してあり、西方は千代田ちよだ村。室町中期には、この地の地侍である伊坂氏の名前が年記を欠く伊勢国内十ケ所人数注文(醍醐寺文書)にみえる。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降おし(現行田市)藩領、天保一三年(一八四二)以降幕府領、その後再び忍藩領。宝永八年(一七一一)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば戸数七六、人数三九一、うち本百姓三〇四・名子水呑八七、人数は男一八四・女二〇七、馬一八、牛四。神社は村の北に氏神八幡宮、西に牛頭ごず天王。寺院は証誠しようせい(浄土真宗本願寺派)年貢・小物成のほか、人足一一人の負担があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android