英語でtraveller's taleというと,直訳すれば〈旅行者の話〉であるが,実際の意味は〈ほら話,つくり話〉である。これは英米人独特のユーモアの産物であろうが,興味深い一面をもっている。現在でこそ〈旅行記〉は真実でなければならないと考えるのが常識だが,18世紀ごろまでは事実か創作かの区別はひどくあいまいで,読者も厳密な区別を作者に要求することはなかった。
例えば有名な《ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険(ロビンソン・クルーソー)》の初版(1719)の表紙には,〈彼自身によって書かれた〉と記されている。作者デフォーはこれを実録と呼び,読者もそれを信じていたし,これが詐欺であるとか背信行為であると責めることもしなかった。さらに旅行案内書は今日では旅行記とは別のものと考えられているが,以下の記述に見るとおりこの区別もきわめて最近のものである。〈旅行記〉はときに冒険小説であり,政治論であり,歴史書ですらあった。また記述の形態も,普通の叙述のほかに,日記,手紙,ときには対話形式をとることもあり,今日よりもはるかに自由であり,多様性に富んでいた。なお,日本の旅行記については〈紀行文学〉の項目を参照されたい。
旅行記の起源をどこに求めるかは,もちろん答えられない難問であるが,〈歴史の〉父といわれるギリシアのヘロドトスの歴史書も,前450年ごろの放浪・遍歴の記録として読むこともできよう。クセノフォンの《アナバシス》も,前400年ごろ1万人のギリシア人傭兵が小アジアから祖国に戻る旅行記でもあり,前50年ごろのカエサルの《ガリア戦記》も優れた旅行記といえる。ギリシア人パウサニアスの《ギリシア案内記》は,160年ごろのギリシア全土案内記であるが,旅を続けながら書きつづったものであるから,ガイドブックであると同時に旅行記でもある。
中世でも東西の交流は行われ,イスラム教徒によるスペイン征服後は,ヨーロッパと中東間の旅の記録は,例えばアラブ人の地図製作者イドリーシーの著作に見られる。また8世紀ごろから盛んになったバイキングの西欧侵入の記録も,オウッタル(880ごろ)のアルフレッド大王訪問記のように今日まで残っている。十字軍の時代となれば,当然多くの聖地巡礼記が書かれ,これは後続の巡礼のための案内記の役も果たした。例えば第4回十字軍に参加したフランス人ビラルドゥアンの《コンスタンティノープル征服》(13世紀初め執筆,出版は1585年),1248年からルイ9世に従って第7回十字軍に加わったJ.deジョアンビルの回想録(1309)などは注目に値する。またチンギス・ハーンが版図を拡大したのち,ローマ教皇は使節を送って交流を図ったが,このようにして伝えられた東方のうわさに好奇心を刺激されたマルコ・ポーロが,20余年の旅を終えて1295年にベネチアに戻ってきた。彼が口述した《東方見聞録》は,まさに〈旅行者の話〉の典型であったかもしれないが,それ以後幾世紀にもわたって,ヨーロッパ人のアジアについての知識の重要な源泉であった。
いわゆる大航海時代の到来によって,ヨーロッパ人が足跡をアメリカ大陸,喜望峰を巡ってインドに印するようになると,当然のことながらその記録が公にされる。コロンブスやベスプッチの手紙は,すぐに各国語に翻訳されて,新世界の情報を提供した。トマス・モアは《ユートピア》(1516)の材料のなにがしかを,これらに仰いでいる。バスコ・ダ・ガマの航海は,ポルトガルの国民的詩人カモンイスに同じ冒険の旅を企てさせることとなり,彼はその体験をふまえて,ガマを主人公とした大航海叙事詩,ホメロスの作品としばしば比較される《ウズ・ルジアダス》(1572)を書いた。マゼラン海峡や南アメリカ沿岸の探検記を書いたペドロ・サルミエント・デ・ガンボアは,F.ドレークと戦って捕虜になり,イギリスに連行されてそこで体験を語ったが,それを聞いたR.ハクルートは,探検記の大コレクションを完成し,航海・探検の歴史を執筆するに至った。彼のコレクションは今日でも貴重であり,彼の名を記念するハクルート協会(1846設立)は,初期の探検・航海記の刊行事業をいまなお続けている。
探検家の後には宣教師が続く。イエズス会の修道士の中には遠く中国,日本にまで到達した者がいた。1544年に初来日し,のちにフランシスコ・ザビエルと親交を結んでイエズス会に入会するポルトガル人メンデス・ピントの《東洋遍歴記》は1614年リスボンで公刊されて以来何度も版を重ね,英訳(1625)もある。同じポルトガルの修道士ルイス・フロイスは1563年来日,日本語を習得して滞在したが,彼の手紙はすでに75年にスペイン語訳が出ている。プロテスタントのドイツ,ネーデルラントですら訳が出ていることは,彼の見聞が西欧各地に広まっていた証拠となろう。このようにして日本の存在がヨーロッパ人の好奇心をそそり,以後日本を訪れる西欧人は鎖国にもかかわらず,例えば三浦按針ことウィリアム・アダムズのように,なにがしかの情報を故国に伝えることができた。日本に足を踏み入れたことのないJ.スウィフトが,《ガリバー旅行記》(1726)という完全な創作の中で日本見聞記を書くことができたのも,ある程度の日本についての知識が広まっていたからであろう。
東西への航海によって世界の富を集めていた16世紀のスペインに,一般社会から疎外された〈ピカロ〉(〈悪漢〉の意)の放浪の旅を語る〈ピカレスク小説(悪者小説)〉が流行し,これが1世紀ほどのうちにフランス,イギリス,ドイツに伝わり各国で傑作を生み出した。もちろんこれは創作で事実談ではないが,すでに述べたように当時の作者も読者もフィクションとノンフィクションの差に目くじらを立てることはなかったし,小説の中へ作者が実体験を豊富に盛り込むことはいつの時代でもあることである。架空の人物の旅行記の形を利用して,現実社会への批判・風刺を行うのは,モンテスキューの《ペルシア人の手紙》(1721)や,O.ゴールドスミスの《世界市民》(1762)--ロンドン滞在の中国人の故郷への手紙の形式をとる--など,多くの実例がある。旅行記を絶対の実録でなければならないと規定し,創作文学と厳密に区別するのは,19世紀あたりからの趨勢であろうが,はたしてこれが正しいことかどうか疑問が残る。なぜなら,文章で記す以上どうしても主観が入らざるをえないのだから。情報伝達のメディアが多様化し,かつ高度に発達した現代においては,言語を使う旅行記の特性は事実伝達ではなく,むしろ作者の個性を十二分に駆使して,読者の感受性を刺激することにあるのではないか。D.H.ロレンスの紀行文が彼の小説以上に作者の人間と思想をよく示しているという評言があるし,アンドレ・ジッドのソビエト紀行は単なるルポルタージュではなく作家の精神の表白であるともいわれる。旅行記とは,究極においては訪れた土地や人を語るものでなく,著者自身を語るものである。
執筆者:小池 滋
8世紀初めに西はイベリア半島から東はイランやマー・ワラー・アンナフルまで広がったイスラム世界は,9世紀以降その政治的統一は徐々に失われていくが,宗教的・言語的(アラビア語)・文化的統合力は失われることはなかった。〈ムスリムは皆兄弟〉という教えと信念によってイスラム世界は一つのウンマ(信仰共同体)であるという観念があり,いまだにイスラムの紐帯(ちゆうたい)が民族主義や地域主義よりも優先していた。かくて大西洋から中国国境にまたがる中世イスラム世界の〈巨大な旅行圏〉が存在し,そこに自由な旅の往来があった。旅の目的はメッカ巡礼,ウラマーの学問修業と留学,遠隔地への商用,大使や使節団,官吏や軍人の公用,観光と漫遊,冒険と調査・探検,宣教と伝道,生計を求めての移住,専門職人の移動など,実にさまざまであった。しかし,イスラムの学問世界では宗教諸学書や語学文学書がまず優先され,統治と王権の威信の維持に直接役だつ地理書や歴史書がまず重視されたこともあって,彼ら旅行者の多くはあえて個人的な旅行記を記録にとどめることはなかった。彼らの旅行談は道中の口承文学として時間の経過とともにほとんど消えたが,その一部は物語や歴史書,地理書,文学書,その他百科全書などに部分的に無系統のまま収められた(広義の紀行文学)。独立した旅行記(狭義の紀行文学)として書かれたケースはごくまれであり,しかも地理書などと違って諸王に献上するほどには珍重されなかった。しかしそれは実際には貴重な記録であり,後代のウラマー,歴史家,地理学者,文学者らによって頻繁に引用されるとともに,他国の事情に興味を抱く幅広い愛読者層によって支えられた。旅行記はまずイスラム商人にとって欠かせない知識の源泉であるとともに,後代の人々にとってはイスラム世界の巡礼,留学,旅行の際のガイドブックとして実際に役にたった。
代表的なものにモロッコ生れのイブン・バットゥータの旅行記やアンダルス生れのイブン・ジュバイルの旅行記がある。前者はメッカ巡礼を発心して東方世界に旅立ち28年12万kmの諸国漫遊ののちに故郷に戻った。その間に彼はチュニジアとモルジブでは裁判官を務め,インドでは中国使節に任命され,エジプトでは2回結婚しモルジブでは4人の妻をめとった。〈イスラム世界は大洋でムスリムは自由に周遊する魚だ〉とのたとえがあるが,彼はこの生活信条を地でいった。彼は人との出会いや異境の変わった風習や習俗や信仰に限りない興味を抱いていたが,己の見聞を旅行記としてはじめから書きとどめるつもりはなく,マリーン朝のスルタンが書記に命じて口述筆記させたのが後世イブン・バットゥータの旅行記として知られるところとなった。おそらくこの大旅行家は,ムスリムの居留地を追って東進するうちについに中国にまで達したものと思われる。後者のイブン・ジュバイルは文才に秀で旅のはじめから日記風に(ヒジュラ暦と太陽暦を併用)丹念に旅行記を書きとどめた。彼の興味の中心は聖地とメッカ巡礼であり,この部分だけで全体の3分の1以上を占めている。
このほかにアッバース朝カリフが921年にボルガ地方へ派遣した使節団の一人イブン・ファドラーンの《旅行報告書》,サーマーン朝スルタンの中国使節(942ごろ)アブー・ドラフAbū Dulaf(生没年不詳)の《中国インド紀行》,グラナダ生れの旅行家アブー・ハーミドAbū Ḥāmid(1080-1169)の諸旅行記,同じくスペイン生れのイブン・サイードIbn Sa`īd(1213-86)の諸旅行記,バグダード生れのアブド・アルラテーフ`Abd al-Laṭīf(1162-1231)の知性あふれる《エジプト紀行》,マムルーク朝下《アミール・ヤシュ・ベクのアナトリア・トルコ紀行》,同じくマムルーク朝下のスルタン,カーイト・バイ(在位1468-96)の《ヒジャーズ紀行》などが代表的なものである。このほかアラビア語以外にもバルフ生れのペルシア人ナーシル・ホスロー(1003-61)の《サファル・ナーマ》(ペルシア語),オスマン帝国の軍人旅行家エウリヤ・チェレビー(1611-84)の旅行記(トルコ語)などがあり,他のジャンルに比べると少ないとはいえイスラム世界の旅行記文学は中世だけでも20以上を数える。このほかに記録としてはあまり残っていないが海洋紀行文学がある。
執筆者:飯森 嘉助
前近代における中国でも,旅行の量的拡大,質的変化に応じてさまざまな旅行記や紀行文が作られた。5世紀初期の法顕(ほつけん)《仏国記》や7世紀中期の玄奘(げんじよう)《大唐西域記》(旅行記としては《大慈恩寺三蔵法師伝》も含め)のように,大陸的な規模の旅行記があり,歴史的資料として高い価値をもっているが,中国の文芸全体の中からみればむしろ例外的なもので,文芸の一分野として確かな位置を占め,多くの作品が生み出されて多様な発展を遂げたのは〈遊記〉と呼ばれるものであった。遊記は図書分類において地理書の一部とされる場合もあるが,一般にはより広く旅行家の記録,文人の紀行文などまでを含み,主として国内の名山名水への遊行による見聞を素材に,一方では文学的色彩を強くし,詩賦と並んで文人の作品では不可欠な文章の一つとなり,一方では実録的・学術的色彩を強め,旅行記を超えて独立した分野の形成につながった。
遊記が出現するのは南北朝期からで,それ以前にも,張騫(ちようけん)や司馬遷で知られるように国内外への旅行や探検は行われているが,その旅行自身を素材にした作品は残されていない。〈禹貢〉《漢書》地理志などの古典的地理書も,地勢,風土,地名,物産などの列記に終始し,旅の見聞との直接の結びつきはみえない。ただ《山海経(せんがいきよう)》《穆天子伝(ぼくてんしでん)》は,異国の風物や伝説について叙述し,のちの遊記に通ずるものがみえる。
南北朝期に遊記が生まれた背景にあるのは自然観の変化である。南北朝期の混乱する社会にあって,都市平野部の現実世界を逃れようとした文人は,山川の世界に憩いを求めた。深山幽谷の中に真実の世界があるとする道教や仏教思想の普及は,この傾向に拍車をかけ,またこの時期に文人に知られるようになった南方には,北方にみられない変化に富み豊かな緑に囲まれた美しい自然があり,山川への遊行を盛んにした。これまでの文芸の素材は主として人事であり,自然をとりあげても抒情のきっかけとしてであったものが,素朴な自然と触れ合うことにより,自然そのものを題材とするようになった(山水)。
遊記の作品として第一に挙げられるのは,南朝宋に仕え永嘉(浙江温州)の太守であり,付近の山川を巡遊し,多くの山水詩とともに《游名山記(志)》と題する作品を残した謝霊運であろう。このほか,王羲之《游四郡記》,釈慧遠(しやくえおん)《游山記》などがあり,また鮑照《登大雷与妹書》,呉均《与宋元兄弟》などは,書信の形をとってはいるが,内容は遊記と同じである。またこの時代に多く作られた,袁山松《宜都山川記》,盛宏之《荆州記》などの小地域を対象とする地誌類は,地理的資料を列記するようなものではなく,実際の遊行による描写を主とし,またのちに遊行する者への案内記も兼ね,遊記に類するものといえよう。郭縁生《述征記》,裴松之《北征記》などの征記の類も,天子の遠征に従軍したときの記録であるが,軍事行動そのものより,征伐に赴いた土地の風物や伝承の叙述を主とし,内容的には遊記に近い。また酈道元(れきどうげん)《水経注》は,南北朝期の地域に対する知識を集成した代表的地理書であるが,遊記の類からとった材料も多く,学術的観点のみならず,文学作品としてものちの遊記作者に大きな影響を与えた。
唐代に入ると遊記は質量ともに大きく発達する。前代をうけて遊記に新しい内容を盛りこんだのは元結で,《右渓記》にみえるように,僻遠の深山幽谷ではなく都会に近い小渓への遊行を題材に,自然のうつろいの中に自身の境遇を寄託し,自然描写と自身の感情表現を結びつけ,文学としての遊記の新しい境地を開いた。これを発展させ《始得西山宴游記》《鈷鉧潭記》など,優れた多くの作品を残したのが柳宗元である。彼は永州(湖南)や柳州(広西)へ貶流され,粗放な自然に触れ,既知の名山名水への遊行では得られない新鮮な感動と,みずからの不遇ではあるが自由な心情を合一させて叙述し,その遊記は唐代の散文の中でも独特の位置を占める。
宋代には陸游《入蜀記》,范成大《呉船録》,王安石《游褒禅山記》,蘇軾《石鍾山記》など,著名な文人による多くの遊記が残されているが,宋代の新しい傾向としては,単なる旅行記に加え,特定の主題についての考証や,時世の論議を目的とする理知的なものが現れたことである。これは宋代一般に流行した理学(朱子学)的風潮の影響もあるが,全国各地の観光化が進み,単なる遊行の叙述ではあきたらなくなったこともあろう。しかし以後明・清に至るまで,学術的考証や歴史的議論はみずからそれ自身で独立し,遊記とは別の分野を確立していったため,量的には多くの遊記が作られたものの,内容的には新鮮さを失った。旅行の大衆化とともに遊記も大衆化した時代であった。この中でとくに注目されるのは徐宏祖《徐霞客遊記》で,地形,地質,水文,生物など,これまでの文人の遊記ではほとんど関心が示されなかったことがらについての新しい発見に富み,のちの自然科学的踏査の先駆者ともいえる。また清末,洋務運動の産物として行われた海外派遣の記録である薛福成(せつふくせい)《出使四国日記》,張徳彝(ちようとくい)の海外遊記八部作などは,西洋社会の実情を一般に啓蒙するのに大きな役割を果たした。同じく開国した明治日本の見聞録である羅森《日本日記》,何如璋《使東述略》,王韜(おうとう)《扶桑游記》なども,これまで東海の夷国とみなされてきた日本の大きな変貌を報告し,人々を驚かせるとともに近代中国のあり方についての議論に一石を投じた。
→巡礼 →旅
執筆者:秋山 元秀
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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