会昌の廃仏(読み)かいしょうのはいぶつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「会昌の廃仏」の意味・わかりやすい解説

会昌の廃仏
かいしょうのはいぶつ

中国、唐の武宗(在位840~846)が行った仏教弾圧。武宗の仏教排斥の兆候は、道教信仰への傾斜に伴って841年(会昌1)から始まり、道士の趙帰真(ちょうきしん)、宰相の李徳裕(りとくゆう)らの協力を得て、数年をかけてしだいに厳しくなり、845年、長安洛陽(らくよう)などの大都市の数寺を残すだけで、他の寺院はすべて財産を没収したうえで廃毀(はいき)し、僧尼還俗(げんぞく)させて納税の民とする廃仏毀釈(きしゃく)令に帰着した。こうして4600余の寺および4万余の招提(しょうだい)・蘭若(らんにゃ)などの寺額のない小仏堂が廃され、僧尼26万余人が還俗し、没収された良田は数千万頃(けい)、奴婢(ぬひ)は15万人に達し、銅や鉄の仏像は改鋳して銅銭農具とされた。当時、長安に滞在していた日本僧円仁(えんにん)の『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいぎょうき)』は逼迫(ひっぱく)する廃仏を刻々記録している。会昌年間(841~846)には仏教のほかマニ教、ネストリウス派キリスト教、ゾロアスター教も禁止された。廃仏政策の背景には、ウイグルの侵入や地方軍閥の反乱、銅銭の不足などの社会問題があった。廃仏は846年の武宗の死によって終わるが、荘園(しょうえん)経営によって経済的な豊かさに安住していた仏教教団の受けた打撃は大きく、寺院に依存することの少なかった禅が後の宋(そう)代仏教の主流となった。

[佐藤智水]

『道端良秀著『唐代仏教史の研究』(1957・法蔵館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「会昌の廃仏」の意味・わかりやすい解説

会昌の廃仏
かいしょうのはいぶつ
Hui-chang-fei-fo

中国,唐の武宗の会昌5 (845) 年に行われた仏教弾圧。中国史上3度目の大規模な廃仏で,隋,唐に栄えた仏教諸派に深刻な打撃を与えた。廃仏の原因としては,教団の退廃や免税特権をもつ僧尼の増加国家財政を圧迫したこともあげうるが,直接的には武宗が道士趙帰真を信任し,その意見を宰相李徳裕とともに全面的に採用したのに始る。寺院 4600,小寺4万あまりを廃し,僧尼 26万余人を還俗させ,長安,洛陽に各4寺,各州には1寺を残すだけという徹底ぶりであったが,武宗が死に宣宗が即位すると (846) ,復仏の詔が出された。 (→三武一宗の法難 )

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旺文社世界史事典 三訂版 「会昌の廃仏」の解説

会昌の廃仏
かいしょうのはいぶつ

唐の武宗の仏教弾圧で,三武一宗の法難の1つ
845(会昌4)年寺院4万余りを廃寺し,僧尼26万余りを還俗させ,寺田数4万頃(1頃は約5.5ヘクタール)・寺奴婢15万人を没収。原因は寺田の没収による国家財政の再建および,道教の保護策がからんでいる。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「会昌の廃仏」の解説

会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)

破仏(はぶつ)

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