日本大百科全書(ニッポニカ) 「三武一宗の法難」の意味・わかりやすい解説
三武一宗の法難
さんぶいっそうのほうなん
中国仏教史上、北魏(ほくぎ)の太武帝、北周の武帝、唐の武宗(以上、三武)と後周(こうしゅう)の世宗(一宗)によって断行された仏教弾圧事件を仏教側からよんだことば。
(1)北魏の廃仏(446~452) 鮮卑(せんぴ)族出身の太武帝は漢人官僚崔浩(さいこう)と道士寇謙之(こうけんし)の影響を受けて道教に傾斜していき、とくに崔浩の方針を採用して、華北一帯の寺院堂塔の廃毀(はいき)、僧尼の還俗(げんぞく)、仏像経巻の焼却などを強行した。
(2)北周の廃仏(574~578) 武帝は隣国北斉(ほくせい)に対する臨戦体制を整える過程において、還俗僧衛元嵩(えいげんすう)らの提言をいれ、仏教と道教の廃棄を決定し、寺院は没収、300万の僧は軍民に編入された。弾圧は主として仏教に向けられ、これに死をもって抗議する僧もいたが、577年には、滅ぼした北斉の旧領内にも適用し、その結果、華北の仏教は大きな打撃を受け、末法思想が広まっていった。
(3)唐の廃仏(845~846) 通称「会昌(かいしょう)の廃仏」。道教に傾倒した武宗は、趙帰真(ちょうきしん)・鄧元起(とうげんき)・劉玄靖(りゅうげんせい)ら道士の提言をいれ、徐々に仏教教団に対する統制を強化し、ついには会昌5年(845)、国家祭祀(さいし)に必要な最小限度の寺院と僧尼を残して、その他の寺院の廃毀と財産没収、僧尼の還俗を断行した。
(4)後周の廃仏(955~959) 世宗は唐以来行われてきた仏教管理政策を再確認して、無額の寺や私度(しど)の僧尼を整理した。この廃仏は前3回の廃仏とは異なり、全国で2694の寺院と6万余の僧尼が改めて登録されるなど、根本的な廃仏ではなかった。
4回の廃仏に共通している点は、僧尼という非生産人口の増加と寺院荘園(しょうえん)の拡大が国家の財政運営上大きな問題となったことである。また、後周を除く三廃仏では、儒教を基本としたうえでの道教・仏教両勢力の角逐が認められる。
[佐藤智水]