佐波村(読み)さなみむら

日本歴史地名大系 「佐波村」の解説

佐波村
さなみむら

[現在地名]能登島町佐波

能登島の中央部、南北にくびれた南側に位置し、北は向田こうだ村、南は七尾南湾に対する。背後の丘陵が海辺まで迫り、集落は海岸沿いに並列する。前面の海に寺島てらしまなど五島が点在する勝景の地。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「左波」とみえる。永正一五年(一五一八)三月能登を旅した冷泉為広の「能州下向日記」に「サナミ」、天正二〇年(一五九二)八月一五日の白山宮建立棟札(伊夜比神社蔵)に佐波とある。

正保郷帳では高一四四石余、田方二町四反・畑七町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高は一六〇石、免四ツ二歩、小物成は山役七七匁・苦竹役二匁、鳥役五匁(出来)、網役七四匁(うち二三匁出来)、串海鼠役四匁、海鼠腸役一匁、猟船櫂役六〇目(うち三〇目出来)があった(三箇国高物成帳)

佐波村
ざわむら

[現在地名]大利根町佐波・新利根しんとね

弥兵衛やへえ村の西に位置し、村の北を利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。嘉慶二年(一三八八)正月二三日の建長寺正統庵末寺住持定書写(相州文書)に「勝栄寺領佐波郷庄主事」は正統庵の評議により選ぶべきこととみえる。

寛永八年(一六三一)の利根川通渡場定書(竹橋余筆)の所付に佐波渡が記載される。田園簿によると田高六五石余・畑高一五五石余、幕府領。寛文四年(一六六四)には下総古河藩領で(寛文朱印留)、貞享二年(一六八五)上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)

佐波村
さばむら

[現在地名]柳津町佐波・流通りゆうつうせんたー

柳津村の西、さかい川西岸に位置する厚見あつみ郡の村。寛永五年(一六二八)上・下に分郷、正徳元年(一七一一)上佐波村はさらに上・中に分郷し、下佐波村は延享三年(一七四六)から南組(南下佐波村とも)・北組(北下佐波村とも)に分れた(柳津町史)。それぞれに庄屋が置かれていたが、郷帳類では佐波村一村である。

元亀元年(一五七〇)七月佐々弥三郎は「濃州佐波之内本領方・地頭方両所之内四拾貫文、田嶋之内拾貫文」を織田信長から宛行われ(「織田信長朱印状」横井文書)、天正五年(一五七七)一一月には「濃州佐波」の三〇貫文など計一二〇貫文を織田信忠から扶助された(「織田信忠判物」同文書)

佐波村
さなみむら

[現在地名]二丈町福井ふくい

大入だいにゆう村・福井村の東に位置し、東は深江ふかえ村、南は真名子まなこ村。加茂川(佐波川)が流れ、東西に唐津街道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田八三石余・畠一石余。元禄国絵図では高四五七石余。領主の変遷は深江村と同じ。天保三年(一八三二)の中津藩領郷村高帳下書では高四五九石余(うち明和八年から文化八年までの出高一石余)。なお寛文四年(一六六四)の肥前唐津藩主大久保忠職の領知目録(寛文朱印留)にみえるほり村は当地の堀に比定され、元禄国絵図によると高六九石余。領主の変遷は深江村と同じとみられ、天保三年の前掲郷村高帳下書でも高六九石余。

佐波村
さばむら

[現在地名]福山市佐波町

神島かしま村の西に位置し、南は草戸くさどおよび長和ながわ村。「福山志料」は船着という地名をあげ、「ムカシ此谷筋松永マテ海ナリシヨシイヒツタフ」と記す。元弘年間(一三三一―三四)佐波越前守景房が天皇方として挙兵した桜山慈俊に味方して佐波城(城山)に拠ったといわれ(備後古城記)、また応仁年間(一四六七―六九)には渡辺越中守に従った名倉雅楽頭が拠城したと伝える(備陽六郡志、福山志料)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報