倉石武四郎(読み)クライシタケシロウ

デジタル大辞泉 「倉石武四郎」の意味・読み・例文・類語

くらいし‐たけしろう〔‐たけシラウ〕【倉石武四郎】

[1897~1975]中国語学者。新潟の生まれ。京大東大教授。中国語の研究教育に新しい方向を与えた。著「中国語五十年」「漢字運命」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「倉石武四郎」の意味・わかりやすい解説

倉石武四郎
くらいしたけしろう
(1897―1975)

中国語学者。新潟県高田(上越市)に生まれる。東京帝国大学支那(しな)文学科を出て、中国学者狩野直喜(かのなおき)を慕い京都帝国大学大学院に学んだ。昭和初期、北京(ペキン)に留学後、漢文訓読を排して中国語音による直読(ちょくどく)を開始、京大では清朝小学(しんちょうしょうがく)(中国古典語研究)の方法を整理し紹介した。1940年(昭和15)から東大教授を兼任、前後して新構想による中国語教科書と中日辞書を編集し、『支那語教育の理論と実際』では従来の漢文教育を批判して中国古典学の研究法を提唱した。第二次世界大戦後、東大に専任、退官後は中国語専修の日中学院を創設(1964)し、『中国語辞典』の刊行(1963)とあわせて、日本の中国語教育に革新的な影響を与えた。

戸川芳郎 2018年10月19日]

『『倉石武四郎著作集』全2巻(1981・くろしお出版)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「倉石武四郎」の意味・わかりやすい解説

倉石武四郎
くらいしたけしろう

[生]1897.9.21. 高田
[没]1975.11.14. 東京
中国語学者。第一高等学校を経て,1921年東京大学支那文学科卒業。東大での学問にあきたらず,京都大学大学院に進み,狩野直喜に師事。 26年京大助教授。 28~30年中国留学。 39年京大教授,49年東大教授,58年東大名誉教授。文学博士。一貫して中国語教育に専心,みずから倉石中国語講座を主宰,没するまで日中学院院長をつとめ,また 46年中国語学研究会 (現中国語学会) を結成,機関誌『中国語学』を出した。古い「漢文」的方法を捨て,中国古典を外国語として学習,研究するという方法をいちはやく提唱し,当時の多くの反対や白眼視を乗越えて実践した。またそのための,現代語から古典語にわたる多くの辞書づくりの構想をもっていたが,現代語の『岩波中国語辞典』 (1963) を完成しただけで,日中辞典の業なかばで倒れた。著書『支那語教育の理論と実際』 (41) ,『漢字の運命』 (52) ,『中国語五十年』 (73) など。

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改訂新版 世界大百科事典 「倉石武四郎」の意味・わかりやすい解説

倉石武四郎 (くらいしたけしろう)
生没年:1897-1975(明治30-昭和50)

日本の中国語学者。新潟県生れ。東大中国文学科を出て,中国学者狩野直喜(かのなおき)を慕って京大大学院に学ぶ。昭和初期,北京に留学後,漢文訓読を排して中国語音による直読を開始,京大では清朝小学(古代漢語の史的研究)の方法を紹介した。1940年から東大教授を兼任,前後して新構想の中国語教科書を編み《支那語教育の理論と実際》で漢文教育を批判し,中国古典学の研究法を提唱。戦後,東大に専任,退官後は中国語専修の日中学院を創設し,《中国語辞典》の公刊とあわせて,日本の中国語教育に絶大な影響を残した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「倉石武四郎」の解説

倉石武四郎 くらいし-たけしろう

1897-1975 昭和時代の中国語学者,中国文学者。
明治30年9月21日生まれ。狩野直喜(なおき)に師事し,昭和14年京都帝大教授。15年東京帝大教授を兼任。中国語音による直読を重視する。「中国語辞典」を編集し,日中学院を創設した。昭和50年11月14日死去。78歳。新潟県出身。東京帝大卒。著作に「漢字の運命」「中国文学講話」など。

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