大正~昭和初期の中国学者。字(あざな)は子温(しおん)。君山と号する。慶応(けいおう)4年正月18日、熊本に生まれる。済済黌(せいせいこう)を卒業後、帝国大学文科大学(東京大学文学部の前身)漢学科に入学、島田篁村(しまだこうそん)に師事し、1895年(明治28)卒業。1900年(明治33)北京(ペキン)に留学、義和団事件にあう。1906年京都帝国大学文科大学教授に任ぜられ、1928年(昭和3)定年退官に至るまで、支那(しな)哲学史あるいは支那語学支那文学講座を担当、この間、文学博士、帝国学士院会員となる。退官後、東方文化学院京都研究所(京都大学人文科学研究所の前身)所長に就任。1944年文化勲章を授けられた。昭和22年12月23日、京都の自宅にて没。墓所は金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の文殊塔そばにある。中国の羅振玉(らしんぎょく/ルオチュンユイ)、王国維(おうこくい/ワンクオウェイ)やフランスのペリオなど外国の学者と親交があり、経学では清朝(しんちょう)考証学を祖述し、文学では戯曲・小説の研究や敦煌(とんこう)文書の調査など、日本の中国学に新風を吹き込んだ功績は大きい。
[清水 茂 2018年10月19日]
『『中国哲学史』(1953・岩波書店)』▽『『支那学文藪』(1973・みすず書房)』▽『『讀書籑余』(1980・みすず書房)』
明治〜昭和期の中国学者 京都帝国大学名誉教授;東方文化学院京都研究所所長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
中国文学および哲学の専門家。号は君山,半農人など。熊本の出身。東京帝大漢学科卒業。1906年から28年まで京都帝大文学部の教授として,支那哲学史と支那語学文学の講座を担当。退官後,東方文化学院京都研究所(京大人文科学研究所東方部の前身)の初代所長。清朝経学の実証的方法を祖述するとともに,ヨーロッパのシナ学を紹介した最初の一人であり,戯曲史,小説史の研究や敦煌文書の研究でも開拓者であった。漢詩文および書をもよくした。また同僚の内藤湖南とともに,京都に来住した董康,羅振玉,王国維らと親交を結んだ。武内義雄,青木正児,小島祐馬,倉石武四郎,吉川幸次郎らはその弟子。著書として生前に《支那学文藪》《読書籑余》など,また遺稿を整理した《中国哲学史》《両漢学術考》《魏晋学術考》などがあり,台湾旧慣調査会編《清国行政法》も,実はその執筆である。
執筆者:吉川 忠夫
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