狩野直喜(読み)カノナオキ

デジタル大辞泉 「狩野直喜」の意味・読み・例文・類語

かの‐なおき〔‐なほキ〕【狩野直喜】

[1868~1947]中国文学哲学研究者。熊本の生まれ。京大教授。元曲敦煌とんこう文書を研究。文化勲章受章。著「中国哲学史」「支那学文叢」など。かのうなおき。

かのう‐なおき〔‐なほキ〕【狩野直喜】

かのなおき

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精選版 日本国語大辞典 「狩野直喜」の意味・読み・例文・類語

かのう‐なおき【狩野直喜】

  1. 漢学者文学博士。熊本県出身。東京帝国大学卒。京都帝国大学教授。京都支那学の祖。清の実証学を継ぎ、とくに元曲、敦煌(とんこう)文書などの新分野を開く。文化勲章受章。主著「中国哲学史」「支那学文藪」など。明治元~昭和二二年(一八六八‐一九四七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「狩野直喜」の意味・わかりやすい解説

狩野直喜
かのなおき
(1868―1947)

大正~昭和初期の中国学者。字(あざな)は子温(しおん)。君山と号する。慶応(けいおう)4年正月18日、熊本に生まれる。済済黌(せいせいこう)を卒業後、帝国大学文科大学(東京大学文学部の前身)漢学科に入学、島田篁村(しまだこうそん)に師事し、1895年(明治28)卒業。1900年(明治33)北京(ペキン)に留学、義和団事件にあう。1906年京都帝国大学文科大学教授に任ぜられ、1928年(昭和3)定年退官に至るまで、支那(しな)哲学史あるいは支那語学支那文学講座を担当、この間、文学博士、帝国学士院会員となる。退官後、東方文化学院京都研究所(京都大学人文科学研究所の前身)所長に就任。1944年文化勲章を授けられた。昭和22年12月23日、京都の自宅にて没。墓所は金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の文殊塔そばにある。中国の羅振玉(らしんぎょく/ルオチュンユイ)、王国維(おうこくい/ワンクオウェイ)やフランスのペリオなど外国の学者と親交があり、経学では清朝(しんちょう)考証学を祖述し、文学では戯曲小説の研究や敦煌(とんこう)文書の調査など、日本の中国学に新風を吹き込んだ功績は大きい。

[清水 茂 2018年10月19日]

『『中国哲学史』(1953・岩波書店)』『『支那学文藪』(1973・みすず書房)』『『讀書籑余』(1980・みすず書房)』

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20世紀日本人名事典 「狩野直喜」の解説

狩野 直喜
カノウ ナオキ

明治〜昭和期の中国学者 京都帝国大学名誉教授;東方文化学院京都研究所所長。



生年
慶応4年1月18日(1868年2月11日)

没年
昭和22(1947)年12月13日

出生地
肥後国(熊本県)

別名
号=君山

学歴〔年〕
東京帝大文科大学漢学科〔明治28年〕卒

主な受賞名〔年〕
文化勲章〔昭和19年〕

経歴
帝大在学中島田重礼に師事。明治33〜36年文部省留学生として清国の北京、上海に留学、張之洞らを知り、西洋のシナ学にも接した。39年京都帝大の文科大学創設委員となり、同年文科大学開設とともに哲学科教授となり、支那哲学史を担当。41年文学科開設に伴い支那語学・支那文学担当教授を兼任。ペリオ、スタインらによる新発見の敦煌古文書調査のため43年清国に渡り、次いで45年〜大正2年渡欧、パリ、ロンドンに赴いてペリオらと友誼を結び、また、日本に亡命中の羅振玉、王国維らと学問を通じて交流。草創期の京都シナ大学にあって積極的に活動。大正14年帝国学士院会員、昭和3年京都帝大を定年退官、4年東方文化学院京都研究所(現・京大人文科学研究所)所長。19年文化勲章受章。支那哲学と支那文学の不可分性を強調、経書研究では清朝実証の学を継ぎ、また王国維らと戯曲小説、特に元曲の研究も始め、俗語文学研究に新分野を拓いた。さらに清朝法制の研究や、ペリオらとの敦煌文書の研究、内藤湖南、羅振玉らとの日本遺存の中国文献研究に業績がある。著書に「支那学文藪」「中国哲学史」「読書纂余」「両漢学術考」「支那文学史」「清朝の制度と文学」「支那小説戯曲史」などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「狩野直喜」の意味・わかりやすい解説

狩野直喜 (かのなおき)
生没年:1868-1947(明治1-昭和22)

中国文学および哲学の専門家。号は君山,半農人など。熊本の出身。東京帝大漢学科卒業。1906年から28年まで京都帝大文学部の教授として,支那哲学史と支那語学文学の講座を担当。退官後,東方文化学院京都研究所(京大人文科学研究所東方部の前身)の初代所長。清朝経学の実証的方法を祖述するとともに,ヨーロッパのシナ学を紹介した最初の一人であり,戯曲史,小説史の研究や敦煌文書の研究でも開拓者であった。漢詩文および書をもよくした。また同僚の内藤湖南とともに,京都に来住した董康,羅振玉,王国維らと親交を結んだ。武内義雄,青木正児,小島祐馬,倉石武四郎,吉川幸次郎らはその弟子。著書として生前に《支那学文藪》《読書籑余》など,また遺稿を整理した《中国哲学史》《両漢学術考》《魏晋学術考》などがあり,台湾旧慣調査会編《清国行政法》も,実はその執筆である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「狩野直喜」の意味・わかりやすい解説

狩野直喜【かのなおき】

中国文学・中国哲学者。熊本市出身。1906年京大教授。哲学では清朝考証学の方法をとり,文学では元曲など口語文学の研究を創始。門下から小島祐馬,倉石武四郎,吉川幸次郎らが輩出。著書《支那学文藪》《中国哲学史》。1944年文化勲章。
→関連項目宮崎市定

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「狩野直喜」の意味・わかりやすい解説

狩野直喜
かのうなおき

[生]明治1(1868).2.11. 熊本
[没]1947.12.13. 京都
中国文学者。号は君山。従来の日本儒学が宋学を祖述したのに対して清朝の考証学を継ぎ,また 19世紀ヨーロッパの中国研究を紹介した。さらに戯曲史,小説史研究の創始者。 1906年京都帝国大学文科大学開設委員,28年まで同大学教授,さらに学士院会員,東方文化研究所所長を歴任し,44年文化勲章受章。著書に『支那学文藪』『読書さん余』『中国哲学史』などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「狩野直喜」の解説

狩野直喜 かの-なおき

1868-1947 明治-昭和時代の中国学者。
慶応4年1月18日生まれ。島田篁村(こうそん)にまなび,北京に留学後,明治39年京都帝大教授となる。王国維やフランス人ペリオらとまじわり,中国の戯曲・小説や敦煌(とんこう)文書を研究した。昭和19年文化勲章。昭和22年12月13日死去。80歳。肥後(熊本県)出身。帝国大学卒。号は君山。著作に「支那学文藪(ぶんそう)」。

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367日誕生日大事典 「狩野直喜」の解説

狩野 直喜 (かのう なおき)

生年月日:1868年1月18日
明治時代-昭和時代の中国学者。京都帝国大学教授
1947年没

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