一般には、16世紀から18世紀にかけての西ヨーロッパにおいて、封建国家から近代国家へと移行する過渡期に現れた絶対君主による政治支配の方式や形態をいう。経済史的にみれば、旧大土地所有者である封建的地主階級と新興の商・工業者からなる近代市民階級との均衡のうえにたつ政治・経済体制である。ところで、絶対主義といっても、その内容はかならずしも同じではなく、君主権力にはイギリスとフランスにみられるように強弱の差があった。
[田中 浩]
イギリスは、1485年のチューダー王朝の成立をもって絶対主義時代に入ったといわれる。しかし、この時期の政治は、フランスのルイ14世が「朕は国家なり(レ・タ・セ・モワ)」L'etat, c'est moi.と述べたようなきわめて専制的な色彩の強いものではかならずしもなかった。なぜなら当時のイギリスの政治家たちは、イギリスは国王・上院・下院からなる偉大な協同体(コーポレーション)である、イギリスの政治は「大権をもつ国王」と「特権をもつ議会」との協同によってうまく行われている、あるいは、イギリス国王の統治は、一つには「法」(コモン・ロー、制定法)によって、さらには「議会」によって制限を受けるという政治信条(制限・混合王政観)を共通に有していたからである。このような政治思想は、まさに国王が旧封建地主階級と新興ブルジョア階級との協力を取り付けつつ政治を行っていた政治状況を反映していたものといえよう。当時のイギリス国王はフランスやスペインの国王たちのように、国王権力は神授のものであるという神権説を主張して君主主権論を掲げ、強大な権力によって中央集権的な国家統治を行うまでには至っていなかったのである。しかし、その後、ヘンリー8世、エリザベス1世と時代が下り、さらに17世紀に入って次のスチュアート王朝時代に入る(1603)と、イギリス国王もフランス流に王権の絶対化を図り始め、ここにジェームズ1世・チャールズ1世と議会の対立が激化した。この際イギリス国王は、議会の同意を得なくとも国王の裁量権によって決定できる「大権」の範囲を拡大して王権の強化を図る方向をとった。その際に用いられたのが「絶対」という法概念であった。
国王支持の法律家たちは、国王の大権には、「絶対」absoluteと「普通」ordinaryの二つがあり、前者については議会といえどもくちばしを差し挟むことはできない、と述べた。こうした論拠によって、国王側は、たとえば、船舶税(シップ・マネー)を国民に課した際に(1634)、国防はこの「絶対」的大権に該当し、したがって国王が国の防衛のために必要と判断すれば自由に課税できるし、それは合法的である、と主張した。しかし、マグナ・カルタ以来の長いイギリス政治の実際において、課税に関しては国民代表(議会)の承諾が必要である、という考えが15世紀末ごろまでには、ほぼ自明のこととされてきていたから、ここに国王と議会の対立は決定的なものとなり、1640年に始まる長期議会における大権政治批判から42年の武力闘争へと事態は進展し、ピューリタン革命が勃発(ぼっぱつ)したのである。以上のことからもわかるように、絶対主義の政治とは、何ものにも拘束されないで政治を行うこと、とくに議会無視の政治を意味したのである。ジェームズ1世は、自ら『自由王政の真の法』(1598)を書き、自由王政とは国王が何ものにも拘束されないで行う政治である、と述べ、またフィルマーは『家父長制(パトリアーカ)論』(1635~42)において、神から絶対的支配権を授かったアダムの子孫、また家族に対して絶対権をもつ家長の頂点にたつ各国君主は、国の統治に関して絶対的権限をもつと主張し、チャールズ1世を擁護した。しかし、このような絶対王制の考え方は、ピューリタン革命と名誉革命という二つの市民革命においてブルジョア階級が勝利したために、イギリス政治の舞台からは姿を消してしまった。ホッブズやロックが、権力の基礎は人民にあるとし、またロックがイギリスにおける最高権力は議会にある、と述べたとき、絶対王制の思想的根拠である絶対主義という観念は失墜し、新しい近代民主主義国家の理論が打ち立てられたのである。
[田中 浩]
フランスでは、1589年にブルボン王朝が成立したときに絶対主義時代が始まったといわれる。ところで、フランスでは、イギリスのように議会(三部会)の地位・権限が強固なものではなかったから、絶対主義的性格が支配的であった。そして、1614年から1789年のフランス革命の勃発まで実に175年間の長きにわたって三部会が招集されなかった。したがって、当時のフランスの政治こそまさに絶対王制の典型であったといえよう。それだけに矛盾も激しかったから、フランス革命はイギリスの諸革命よりもよりいっそう根本的かつ急進的(ラディカル)に闘われたのである。
プロイセン(ドイツ)の場合にはフリードリヒ2世即位の年1740年から1848年の三月革命まで、ロシアの場合には1682年にピョートル1世が即位した年から1917年の二月革命までが、絶対主義時代とよばれている。これらの国々では、もはやかつてのフランスのような絶対主義時代とは異なり、国王は先進国の文明を取り入れ、産業育成を目ざして近代化を図っているので、啓蒙(けいもう)絶対君主ともよばれている。日本の場合には、明治維新から45年(昭和20)の敗戦までを天皇制絶対主義の時代とみる考え、明治維新を絶対主義的性格をもつものとしながらも市民革命とする考えなど、さまざまである。
[田中 浩]
絶対主義の評価については二つの側面から考えることができよう。一つはそのマイナス評価である。前述したように、この時代は、強大な権力をもつ国王の恣意(しい)的な政治が日常的にみられたから、人権や自由がほとんど保障されず、また当然に民主的な制度や統治ルールを確立する動きは抑圧された。明治維新から敗戦に至るまでの日本が、資本主義国としては欧米先進諸国と比肩できるほどに発展してきていたにもかかわらず、その政治支配があまりにも封建的・抑圧的であったために、戦前の日本において天皇制的絶対主義と規定する考えが有力に存在したのはこのためである。絶対主義という語が政治上、専制政治、強権政治の代名詞として表象されるのは、この意味においてである。したがって、こうした封建的・非民主的な絶対主義支配が、市民革命や社会主義革命によって変革される運命にあったことは、歴史の証明するところである。
にもかかわらず、絶対主義は、封建社会から近代社会への過渡期に位置した一つの重要な政治支配・政治構造であったという側面ももっている。中世封建社会においては、ヨーロッパであれ中国・日本であれ、ある一定地域内に何十、何百という封建領主が割拠し、分権的支配を行っていた。この封建領主たちのなかからやがて1人の強大な君主が出現し、彼は同輩たる封建領主たちをさまざまな手段、たとえば、あるときは暴力的に、あるときは爵位を与えて宮廷貴族に変えてその勢力を弱めることによって、次々に自己の支配下に置いていった。イギリスの「ばら戦争」(1455~85)、イギリス・フランスの百年戦争(1338~1453)、三十年戦争(1618~48)などは、封建領主の勢力を弱め、絶対君主の権力を強めた。他方イギリスにおけるワット・タイラーの乱(1381)、フランスのジャクリーの乱(1358)、ドイツ農民戦争(1524~25)などは、封建社会の支配構造を揺るがし、新興の商業・産業階級の台頭を促す要因となった。絶対君主は、これらの状況を巧みに利用しつつ、その一元的支配の方式を確立していった。たとえば、イギリスでは14~15世紀の間(かん)に、身分制議会はしだいに全国的な政治統合の機関という性格を強め、国王はこの議会に君臨することによってその権威を高めていった。ヘンリー8世が、ローマ法王と絶縁し、1534年に「首長令」を発してイギリスにおける聖俗両権の首長としての地位を確立できたのは、実に、議会の支持があったからである。またイギリスではこのころからしだいに局地的市場圏が生まれ、そのことは、経済的にも全国的な連絡網が徐々に形成されていく要因となった。近代国家とは、一つの権力、一つの法による統治によって、その安定性を確保する政治支配をとるものであるとすれば、まさに絶対主義は、近代国家形成への道を掃き清めたものといえよう。この時代に各国君主は、ローマやジュネーブによる宗教的支配から脱して、対外的に独立し、また一国内部における支配権を確立しつつ、自らを主権者として位置づけたのである。しかし、この主権者の地位も、やがて新興の市民階級にとってかわられることになる。
絶対君主は、その経済的基盤を固めるために重商主義政策をとったが、そのことは、自由な経済活動を求めた新興のブルジョア階級の経済的利害と矛盾し、ブルジョア階級は、政治的・経済的ヘゲモニーを獲得するために、絶対君主に敵対し、市民革命を起こしたからである。そして、革命の勝利により、市民階級が議会を国民代表的性格に変え、一つの権力、一つの政府、一つの法による「法の支配」という統治方式を確立したときに、絶対主義の歴史的役割は終わりを告げたのである。
[田中 浩]
『大野真弓著『イギリス絶対主義の権力構造』(1977・東京大学出版会)』▽『田中豊治著『イギリス絶対王政期の産業構造』(1969・岩波書店)』▽『柴田三千雄著『フランス絶対王政論』(1960・御茶の水書房)』▽『河野健二著『絶対主義の構造』(1950・日本評論社)』▽『『絶対主義論』(『服部之総著作集 第4巻』所収・1967・理論社)』▽『田中浩著『国家と個人』(1990・岩波書店)』
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近代初期のヨーロッパに現れた王権の強い政治体制。15~16世紀に王権が官僚制や常備軍によって中央集権を進めるとき,当時の王政理論は王権が法から自由で絶対的だとしてこれを正当化したが,恣意的な専制とは区別した。王権をこえる「基本法」が存在するという議論だが,その実際はあいまいだった。当時の国民は貴族,聖職者,平民などの身分団体(社団)に組織され,その団体はそれぞれ特権を与えられて自由を保障されていたから,その団体の代表会議(フランスでは三部会)と王権との関係が,国政上の大問題となり,それが各国で政治的不安定,さらには革命の原因にまでなった。王権が代表会議を無視するまでに強力なとき絶対王政といい,それに制約されるとき制限王政という。王は神の代理人だとの王権神授説をとったルイ14世期のフランスが,絶対主義の代表。
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ヨーロッパの封建制から資本主義の過渡期に生じた政治体制。官僚と常備軍を手足として,王権神授説によって王権の絶対化を図りつつ,国民に対する直接的支配を強めた。財源確保のために重商主義政策をとるが,一方では貴族の特権やギルド制などの封建的特権の維持を図り,商工業ブルジョアの成長によって打倒されていった(市民革命)。明治国家体制を絶対主義とする議論が多かったが,近年では,この概念の適用を統治機構の特徴に限定し,国家体制の歴史的性格には及ぼさないとする説も出てきている。
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…一般的な意味では,唯一絶対の視点や価値観から何ごとかを主張するのではなく,もろもろの視点や価値観の併立・共存を認め,それぞれの視点,価値観に立って複数の主張ができることを容認する立場をいう。複数主義,多元主義pluralismに近く,絶対主義absolutismや普遍主義universalismに対立する。この対立の深刻な場面は,倫理的価値,宗教的価値に最もよく現れる。…
…このような封建制度の崩壊傾向とともに時代は近代に移っていくのである。【青山 吉信】
[絶対主義の時代]
チューダー朝の成立(1485)からピューリタン革命の勃発(1640)までの時期が,イギリスにおける絶対主義の時代である。ただし絶対主義といっても官僚制と常備軍によって支えられた強力な王権のもとでの中央集権国家の成立をこの時点で考えるのは,イギリスの場合現実に反する。…
…18世紀後半,ドイツ,イタリア,ロシアなどに現れた,絶対主義的な君主制の一局面。この時代フランスを中心に展開した啓蒙思想を,君主自身が〈上からの近代化〉のために採り入れ,官僚行政の拡充を通じて,さまざまの改革を試みたもの。…
…近代的な国家概念はこの系統に属し,マキアベリが《君主論》で用いたのが最も早い例とされているが,これはラテン語で〈組織〉を意味するstatusと同義である。
[国民国家]
絶対主義国家は,中世共同体の崩壊過程に成立したことによって,共同体から解放された人々を基礎として,社会の秩序と安定をつくりだす課題を負わなければならなかった。その意味でそれは,明らかに近代国家の最初の形態であったといってよい。…
…ほぼ16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ諸国で,国王の権力が絶対的ともいわれるほど強力になったので,そのように強力な国王の支配する体制を絶対王政(または絶対王制)と呼び,イギリスのエリザベス1世やフランスのルイ14世などの治世がその代表的なものとされる。絶対主義absolutismというのもこれとほとんど同じ意味である。〈絶対〉という言葉はもともと,さまざまな拘束から解き放たれているという意味であり,したがって絶対王政の本来の意味は,国王がさまざまな国家機関や国法によって制約されることなく意のままに統治する体制,ということである。…
※「絶対主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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