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絶対主義 ぜったいしゅぎ absolutism

翻訳|absolutism

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

絶対主義
ぜったいしゅぎ
absolutism

主として近世初頭のヨーロッパにみられる支配形態で,国王,君主が何者にも拘束されない絶対的な権力をもつ政治体制を意味する。歴史的には,中世の封建制社会が解体しはじめ,一方で近代の資本制社会が確立するにいたらない過渡期に出現した。

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デジタル大辞泉の解説

ぜったい‐しゅぎ【絶対主義】

哲学で、絶対者または絶対的な真理や価値規準を認める立場。アブソリューティズム。⇔相対主義
君主が絶対的権力をもって支配する専制的な政治形態。16~18世紀のヨーロッパで、封建国家から近代国家へ移行する過渡期に出現。王権神授説を背景に、常備軍と官僚制度に支えられ、経済政策としては重商主義をとった。市民革命によって近代国家へ移行。
シュプレマティスム

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百科事典マイペディアの解説

絶対主義【ぜったいしゅぎ】

絶対王政

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大辞林 第三版の解説

ぜったいしゅぎ【絶対主義】

絶対的な真理・価値などが存在すると考える立場。 ↔ 相対主義
一六世紀から一八世紀のヨーロッパにおいて、封建国家が解体して近代国家が誕生する過渡期に出現した、強力な君主が支配する政治形態。絶対君主制。
シュプレマティスムに同じ。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

絶対主義
ぜったいしゅぎ
absolutism英語
Absolutismusドイツ語
absolutismeフランス語

一般には、16世紀から18世紀にかけての西ヨーロッパにおいて、封建国家から近代国家へと移行する過渡期に現れた絶対君主による政治支配の方式や形態をいう。経済史的にみれば、旧大土地所有者である封建的地主階級と新興の商・工業者からなる近代市民階級との均衡のうえにたつ政治・経済体制である。ところで、絶対主義といっても、その内容はかならずしも同じではなく、君主権力にはイギリスフランスにみられるように強弱の差があった。[田中 浩]

イギリスの絶対主義

イギリスは、1485年のチューダー王朝の成立をもって絶対主義時代に入ったといわれる。しかし、この時期の政治は、フランスのルイ14世が「朕は国家なり(レ・タ・セ・モワ)」L'etat, c'est moi.と述べたようなきわめて専制的な色彩の強いものではかならずしもなかった。なぜなら当時のイギリスの政治家たちは、イギリスは国王・上院・下院からなる偉大な協同体(コーポレーション)である、イギリスの政治は「大権をもつ国王」と「特権をもつ議会」との協同によってうまく行われている、あるいは、イギリス国王の統治は、一つには「法」(コモン・ロー、制定法)によって、さらには「議会」によって制限を受けるという政治信条(制限・混合王政観)を共通に有していたからである。このような政治思想は、まさに国王が旧封建地主階級と新興ブルジョア階級との協力を取り付けつつ政治を行っていた政治状況を反映していたものといえよう。当時のイギリス国王はフランスやスペインの国王たちのように、国王権力は神授のものであるという神権説を主張して君主主権論を掲げ、強大な権力によって中央集権的な国家統治を行うまでには至っていなかったのである。しかし、その後、ヘンリー8世、エリザベス1世と時代が下り、さらに17世紀に入って次のスチュアート王朝時代に入る(1603)と、イギリス国王もフランス流に王権の絶対化を図り始め、ここにジェームズ1世・チャールズ1世と議会の対立が激化した。この際イギリス国王は、議会の同意を得なくとも国王の裁量権によって決定できる「大権」の範囲を拡大して王権の強化を図る方向をとった。その際に用いられたのが「絶対」という法概念であった。
 国王支持の法律家たちは、国王の大権には、「絶対」absoluteと「普通」ordinaryの二つがあり、前者については議会といえどもくちばしを差し挟むことはできない、と述べた。こうした論拠によって、国王側は、たとえば、船舶税(シップ・マネー)を国民に課した際に(1634)、国防はこの「絶対」的大権に該当し、したがって国王が国の防衛のために必要と判断すれば自由に課税できるし、それは合法的である、と主張した。しかし、マグナ・カルタ以来の長いイギリス政治の実際において、課税に関しては国民代表(議会)の承諾が必要である、という考えが15世紀末ごろまでには、ほぼ自明のこととされてきていたから、ここに国王と議会の対立は決定的なものとなり、1640年に始まる長期議会における大権政治批判から42年の武力闘争へと事態は進展し、ピューリタン革命が勃発(ぼっぱつ)したのである。以上のことからもわかるように、絶対主義の政治とは、何ものにも拘束されないで政治を行うこと、とくに議会無視の政治を意味したのである。ジェームズ1世は、自ら『自由王政の真の法』(1598)を書き、自由王政とは国王が何ものにも拘束されないで行う政治である、と述べ、またフィルマーは『家父長制(パトリアーカ)論』(1635~42)において、神から絶対的支配権を授かったアダムの子孫、また家族に対して絶対権をもつ家長の頂点にたつ各国君主は、国の統治に関して絶対的権限をもつと主張し、チャールズ1世を擁護した。しかし、このような絶対王制の考え方は、ピューリタン革命と名誉革命という二つの市民革命においてブルジョア階級が勝利したために、イギリス政治の舞台からは姿を消してしまった。ホッブズやロックが、権力の基礎は人民にあるとし、またロックがイギリスにおける最高権力は議会にある、と述べたとき、絶対王制の思想的根拠である絶対主義という観念は失墜し、新しい近代民主主義国家の理論が打ち立てられたのである。[田中 浩]

その他の絶対主義

フランスでは、1589年にブルボン王朝が成立したときに絶対主義時代が始まったといわれる。ところで、フランスでは、イギリスのように議会(三部会)の地位・権限が強固なものではなかったから、絶対主義的性格が支配的であった。そして、1614年から1789年のフランス革命の勃発まで実に175年間の長きにわたって三部会が招集されなかった。したがって、当時のフランスの政治こそまさに絶対王制の典型であったといえよう。それだけに矛盾も激しかったから、フランス革命はイギリスの諸革命よりもよりいっそう根本的かつ急進的(ラディカル)に闘われたのである。
 プロイセン(ドイツ)の場合にはフリードリヒ2世即位の年1740年から1848年の三月革命まで、ロシアの場合には1682年にピョートル1世が即位した年から1917年の二月革命までが、絶対主義時代とよばれている。これらの国々では、もはやかつてのフランスのような絶対主義時代とは異なり、国王は先進国の文明を取り入れ、産業育成を目ざして近代化を図っているので、啓蒙(けいもう)絶対君主ともよばれている。日本の場合には、明治維新から45年(昭和20)の敗戦までを天皇制絶対主義の時代とみる考え、明治維新を絶対主義的性格をもつものとしながらも市民革命とする考えなど、さまざまである。[田中 浩]

絶対主義の評価と役割

絶対主義の評価については二つの側面から考えることができよう。一つはそのマイナス評価である。前述したように、この時代は、強大な権力をもつ国王の恣意(しい)的な政治が日常的にみられたから、人権や自由がほとんど保障されず、また当然に民主的な制度や統治ルールを確立する動きは抑圧された。明治維新から敗戦に至るまでの日本が、資本主義国としては欧米先進諸国と比肩できるほどに発展してきていたにもかかわらず、その政治支配があまりにも封建的・抑圧的であったために、戦前の日本において天皇制的絶対主義と規定する考えが有力に存在したのはこのためである。絶対主義という語が政治上、専制政治、強権政治の代名詞として表象されるのは、この意味においてである。したがって、こうした封建的・非民主的な絶対主義支配が、市民革命や社会主義革命によって変革される運命にあったことは、歴史の証明するところである。
 にもかかわらず、絶対主義は、封建社会から近代社会への過渡期に位置した一つの重要な政治支配・政治構造であったという側面ももっている。中世封建社会においては、ヨーロッパであれ中国・日本であれ、ある一定地域内に何十、何百という封建領主が割拠し、分権的支配を行っていた。この封建領主たちのなかからやがて1人の強大な君主が出現し、彼は同輩たる封建領主たちをさまざまな手段、たとえば、あるときは暴力的に、あるときは爵位を与えて宮廷貴族に変えてその勢力を弱めることによって、次々に自己の支配下に置いていった。イギリスの「ばら戦争」(1455~85)、イギリス・フランスの百年戦争(1338~1453)、三十年戦争(1618~48)などは、封建領主の勢力を弱め、絶対君主の権力を強めた。他方イギリスにおけるワット・タイラーの乱(1381)、フランスのジャクリーの乱(1358)、ドイツ農民戦争(1524~25)などは、封建社会の支配構造を揺るがし、新興の商業・産業階級の台頭を促す要因となった。絶対君主は、これらの状況を巧みに利用しつつ、その一元的支配の方式を確立していった。たとえば、イギリスでは14~15世紀の間(かん)に、身分制議会はしだいに全国的な政治統合の機関という性格を強め、国王はこの議会に君臨することによってその権威を高めていった。ヘンリー8世が、ローマ法王と絶縁し、1534年に「首長令」を発してイギリスにおける聖俗両権の首長としての地位を確立できたのは、実に、議会の支持があったからである。またイギリスではこのころからしだいに局地的市場圏が生まれ、そのことは、経済的にも全国的な連絡網が徐々に形成されていく要因となった。近代国家とは、一つの権力、一つの法による統治によって、その安定性を確保する政治支配をとるものであるとすれば、まさに絶対主義は、近代国家形成への道を掃き清めたものといえよう。この時代に各国君主は、ローマやジュネーブによる宗教的支配から脱して、対外的に独立し、また一国内部における支配権を確立しつつ、自らを主権者として位置づけたのである。しかし、この主権者の地位も、やがて新興の市民階級にとってかわられることになる。
 絶対君主は、その経済的基盤を固めるために重商主義政策をとったが、そのことは、自由な経済活動を求めた新興のブルジョア階級の経済的利害と矛盾し、ブルジョア階級は、政治的・経済的ヘゲモニーを獲得するために、絶対君主に敵対し、市民革命を起こしたからである。そして、革命の勝利により、市民階級が議会を国民代表的性格に変え、一つの権力、一つの政府、一つの法による「法の支配」という統治方式を確立したときに、絶対主義の歴史的役割は終わりを告げたのである。[田中 浩]
『大野真弓著『イギリス絶対主義の権力構造』(1977・東京大学出版会) ▽田中豊治著『イギリス絶対王政期の産業構造』(1969・岩波書店) ▽柴田三千雄著『フランス絶対王政論』(1960・御茶の水書房) ▽河野健二著『絶対主義の構造』(1950・日本評論社) ▽『絶対主義論』(『服部之総著作集 第4巻』所収・1967・理論社) ▽田中浩著『国家と個人』(1990・岩波書店)』

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