全面講和運動(読み)ぜんめんこうわうんどう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「全面講和運動」の意味・わかりやすい解説

全面講和運動
ぜんめんこうわうんどう

第二次世界大戦後の対日講和条約締結にあたって、米ソ両陣営のいずれにも偏せず、日本の全交戦国との条約締結を唱えた運動。第二次大戦で敗北した日本は、事実上アメリカの単独占領下にあったが、アメリカは1948年(昭和23)から日本を「アジアにおける反共防壁」にしようとする政策を推進し、また中国革命の進展に伴って翌1949年9月ごろから国務省ソ連を排した「片面講和」政策が明らかになった。それに対して日本国内では1950年を前後として「全面講和」を望む新聞、知識人、革新政党から「片面講和」反対の声が徐々に盛り上がっていった。同年1月、安倍能成(あべよししげ)、中野好夫(よしお)ら知識人でつくられた平和問題談話会は、「講和問題についての声明」を発表し、全面講和・経済自立・中立不可侵・軍事基地提供反対を声明し(雑誌『世界』同年3月号)、朝日新聞も同年5月、「講和に対する態度」を3回にわたって連載して全面講和・中立・軍事基地化反対を訴えた。また社会党は、同年の第5、6回党大会で全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対の平和三原則を決め、翌1951年1月の第7回大会では左派優位の下で「講和問題に対する態度に関する件」で再軍備反対を加えた平和四原則を決定した。平和四原則は、1951年3月の総評第2回大会で確認されて以降、労働組合等にも広がり、同年7月、総評・宗教者平和運動協議会等の諸団体が日本平和推進国民会議を結成した。他方、共産党労農党等も同年1月に全面講和愛国運動全国協議会を結成し、運動はサンフランシスコ会議を前に活発化した。しかし、9月8日、講和条約は、結局、連合国55か国のうち48か国と締結され、「片面性」を残した。全面講和運動は、共産党が日本の中立方針をとらなかったことなどのため社・共統一にまで発展しなかった。しかし、後の軍事基地反対闘争から60年安保闘争につながる戦後平和運動の出発点となった。

[荒 敬]

『細谷千博著『サンフランシスコ講和への道』(1984・中央公論社)』『マイケル・ヨシツ著、宮里政玄・草野厚訳『日本が独立した日』(1984・講談社)』『宮里政玄他編『サンフランシスコ講和』(1986・東京大学出版会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「全面講和運動」の意味・わかりやすい解説

全面講和運動 (ぜんめんこうわうんどう)

第2次大戦後の対日講和条約の締結に際して,米ソ両陣営のいずれにもくみせずに,第2次大戦の交戦国のすべてと結ぶべきだとの立場をとった運動。1949年末ごろから,日本を占領していたアメリカは,東西の冷戦構造のなかで西側諸国だけとの単独講和の準備を進めていた。これに対して知識人,革新陣営を中心に全面講和運動が高まり,50年1月に平和問題談話会は〈講和問題についての声明〉を発表し,〈日本の運命は,日本が平和の精神に徹しつつ,而も毅然として自主独立の道を進む時にのみ開かれる〉として,全面講和以外にないと主張した。また,51年1月の日本社会党第7回大会では,〈講和問題に対する態度に関する件〉で,全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対の平和三原則に,再軍備反対を加えて平和四原則を決定した。この平和四原則は同年3月の総評第2回大会でも決定されるなど,労働組合,農民組合などにも急速に波及していった。このような運動の広がりのなかで,51年7月には総評,宗教者平和運動協議会などが提携して日本平和推進国民会議を結成し,単独講和に反対して,サンフランシスコ講和条約および日米安全保障条約の批准反対闘争にすべての運動の結集をめざした。また,日本共産党,労農党,産別会議などは全面講和愛国運動協議会(全愛協)を結成して運動を展開した。しかし,51年9月8日の講和条約の締結は旧連合国55ヵ国のうち,48ヵ国との単独講和であった。
サンフランシスコ講和条約
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