デジタル大辞泉
「安倍能成」の意味・読み・例文・類語
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あべ‐よししげ【安倍能成】
- 評論家、哲学者、教育家。愛媛県出身。夏目漱石門下。京城帝国大学教授。一高校長。第二次大戦後、文相、学習院院長を歴任。主著に「西洋近世哲学史」。明治一六~昭和四一年(一八八三‐一九六六)
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安倍能成
あべよししげ
(1883―1966)
哲学者、教育者。愛媛県松山に生まれる。1909年(明治42)東京帝国大学文科大学卒業。法政大学教授、ヨーロッパ留学、京城(けいじょう)帝国大学教授などを経て、第二次世界大戦時体制下に第一高等学校校長となり、名校長とうたわれた。第二次世界大戦後1946年(昭和21)幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣の文相。のち帝室博物館(現、東京国立博物館)館長、学習院院長となる。西洋哲学の翻訳、著述に従い、夏目漱石(なつめそうせき)の影響で一時は文芸評論も書いた。硬骨のリベラリストであり、第二次世界大戦後の第一次アメリカ教育使節団(1946)来日歓迎の挨拶(あいさつ)で、アメリカが力でなく「正義と真理」によって日本に臨むよう要望したことは有名。主著に『西洋古代中世哲学史』(1916)、『西洋近世哲学史』(1917)、『カントの実践哲学』(1924)などがある。
[尾崎ムゲン 2016年8月19日]
『『安倍能成選集』第1~5巻(1997・日本図書センター)』
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安倍 能成
アベ ヨシシゲ
- 肩書
- 文相,学習院院長,一高校長
- 生年月日
- 明治16年12月23日
- 出生地
- 愛媛県松山市小唐人町
- 学歴
- 東京帝大文科大学哲学科〔明治42年〕卒
- 経歴
- 東大在学中から「ホトトギス」などに文芸評論を発表し、明治44年阿部次郎ら4人の合著「影と声」を刊行。大正2年「予の世界」を刊行し、以後「西洋古代中世哲学史」「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」などを刊行。その間、慶大、法政大などに勤務し、13〜15年ヨーロッパに留学。帰国後は京城大教授を経て、昭和15年一高校長に就任した。21年幣原内閣の文部大臣となるが、数ケ月で辞任。同年10月学習院長に就任し、戦後私立学校となった学習院の基礎固めに専念した。また、俳句は早くから夏目漱石の指導を受けるほか、高浜虚子、松根東洋城にも接し「渋柿」にも筆を執った。著書に「静夜集」「朝暮抄」「思想と文化」「山中雑記」「時代と文化」「一日本人として」「我が生ひ立ち」「安倍能成選集」(全5巻 小山書店)などがある。
- 受賞
- 読売文学賞(第9回・評論・伝記賞)〔昭和32年〕「岩波茂雄伝」
- 没年月日
- 昭和41年6月7日
- 家族
- 弟=安倍 恕(高裁長官)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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安倍 能成
アベ ヨシシゲ
明治〜昭和期の教育者,哲学者 文相;学習院院長;一高校長。
- 生年
- 明治16(1883)年12月23日
- 没年
- 昭和41(1966)年6月7日
- 出生地
- 愛媛県松山市小唐人町
- 学歴〔年〕
- 東京帝大文科大学哲学科〔明治42年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 読売文学賞(第9回・評論・伝記賞)〔昭和32年〕「岩波茂雄伝」
- 経歴
- 東大在学中から「ホトトギス」などに文芸評論を発表し、明治44年阿部次郎ら4人の合著「影と声」を刊行。大正2年「予の世界」を刊行し、以後「西洋古代中世哲学史」「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」などを刊行。その間、慶大、法政大などに勤務し、13〜15年ヨーロッパに留学。帰国後は京城大教授を経て、昭和15年一高校長に就任した。21年幣原内閣の文部大臣となるが、数ケ月で辞任。同年10月学習院長に就任し、戦後私立学校となった学習院の基礎固めに専念した。また、俳句は早くから夏目漱石の指導を受けるほか、高浜虚子、松根東洋城にも接し「渋柿」にも筆を執った。著書に「静夜集」「朝暮抄」「思想と文化」「山中雑記」「時代と文化」「一日本人として」「我が生ひ立ち」「安倍能成選集」(全5巻 小山書店)などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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安倍能成 (あべよししげ)
生没年:1883-1966(明治16-昭和41)
哲学者,教育者。松山市に生まれ,一高を経て1909年東大哲学科を卒業。在学中から漱石門に出入りし文芸批評も書くが,カントを専攻し《カントの実践哲学》(1924)などを著し,岩波版《哲学叢書》の編集に当たる。京城帝国大学などを経て40年一高校長に就任,敗戦をむかえた。リベラリスト安倍には,敗戦直後めざましい活躍の場が与えられ,46年には,文部大臣,貴族院議員(憲法改正特別委員会委員長),帝室(後に国立)博物館館長,国語調査会会長,教育刷新委員会委員長の要職についた。また戦後長く学習院院長の職にあり,皇室との関係も深かった。他方,岩波茂雄と親交のあった安倍は,《世界》をよりどころとする平和問題談話会に参加したが,しだいに距離をおき,同人誌《心》の中心的メンバーとなった。
執筆者:浦野 東洋一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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安倍能成
あべよししげ
[生]1883.12.23. 松山
[没]1966.6.7. 東京
評論家,哲学者。第一高等学校を経て 1909年東京大学哲学科卒業。女子英学塾,日蓮宗大学,慶應義塾大学の講師をしながら『ホトトギス』『朝日新聞』文芸欄に自然主義批判の評論を発表。友人岩波茂雄の岩波書店創立に際し阿部次郎らと『哲学叢書』 (12巻,1915~16) を編集して協力。この頃から西洋哲学の翻訳,著作に従い,特に R.オイケンの思想を伝えて大正期の理想主義思潮に影響するとともに,夏目漱石門下の教養あるリベラリストとして「岩波文化」の一翼を支えた。法政大学 (20) ,京城帝国大学 (26) 教授,第一高等学校校長 (40) を歴任,第2次世界大戦後の 46年には文部大臣,学習院院長となり,教育者としてもすぐれた業績を残した。 46~48年帝室博物館館長。『オイケン』 (1915) ,『カントの実践哲学』 (24) ,『思想と文化』 (24) ,『一日本人として』 (48) ,『一リベラリストの言葉』 (53) ほか著書多数。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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安倍能成【あべよししげ】
哲学者。松山の出身。東大哲学科卒。1940年一高校長。第2次大戦後は1946年幣原喜重郎内閣の文相となり文教改革を推進し,のち学習院長。夏目漱石門下の自由主義思想家(カント哲学を専攻)で,対日講和条約締結に際しては1950年全面講和論を唱えた。
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安倍能成
あべよししげ
1883.12.23~1966.6.7
明治~昭和期の哲学者。愛媛県出身。東大卒。1924年(大正13)に渡欧,28年(昭和3)京城帝国大学法文学部長,40年一高校長,45年貴族院議員,46年文相,同年文相辞任後学習院院長となり,私立となった学習院の経営と教育に専念した。オイケン,カントの研究で知られたが,謡曲を通じて漱石門に入って文芸評論の筆をとり,一高時代からの友人岩波茂雄との交情によって「哲学叢書」を編集した。第2次大戦後は全面講和論を唱えて自由主義者の真骨頂を示すなど,活動の幅はきわめて広かった。妻恭子は藤村操の妹。著書「岩波茂雄伝」「我が生ひ立ち」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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安倍能成 あべ-よししげ
1883-1966 明治-昭和時代の哲学者,教育者。
明治16年12月23日生まれ。夏目漱石(そうせき)の門下。岩波版「哲学叢書(そうしょ)」の編集にくわわる。昭和15年一高校長,21年幣原(しではら)内閣の文相,のち学習院院長となる。昭和41年6月7日死去。82歳。愛媛県出身。東京帝大卒。著作に「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」「平和への念願」など。
【格言など】現実に触れよとは切実な経験をせよということである
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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安倍 能成 (あべ よししげ)
生年月日:1883年12月23日
明治時代-昭和時代の教育者;哲学者。文部大臣;学習院院長
1966年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の安倍能成の言及
【学習院】より
…結局,学習院の良き伝統と新時代での独自な教育をすすめる立場から,私立学校への道がとられた。こうして49年高等科は新制大学に移行,学習院大学と改称し,文政学部と理学部をもった学校法人学習院の設置する一般的な大学となり,初代学長[安倍能成]によって大学総合化の方向が促進された。現在,文・経・法・理の4学部,人文・法・政・経・経営・自然の6研究科をもつ大学院,および学習院女子短期大学をふくむ総合大学となっている。…
【教育刷新委員会】より
…[アメリカ教育使節団]に協力すべき日本側教育家の委員会が前身であり,後身は[中央教育審議会]であるといってよい。各界の識者約50名をもって組織され,発足当初の委員長は安倍能成,副委員長は南原繁で,委員のなかには高橋誠一郎,城戸幡太郎,天野貞祐,務台理作,森戸辰男などがいる。委員会は,46年9月から51年11月までの間に142回の総会を開催し,これと並行して,教育の理念および[教育基本法]の制定に関する第1特別委員会をはじめ21の特別委員会を設けて調査審議を行った。…
【平和問題談話会】より
…第2次世界大戦後,再び国際情勢が緊迫してきた1948年7月に発表されたユネスコの社会科学者による平和の訴えに示唆を受け,同年12月12日に東京青山の明治記念館に安倍能成,仁科芳雄,大内兵衛ら50余名が集い,〈戦争と平和に関する日本の科学者の声明〉を出したが,これに署名した学者が,49年初頭に東西でそれぞれ東京平和問題談話会,京都平和問題談話会を組織し,同年12月21日,東京丸の内の工業俱楽部で総会を開き,横田喜三郎,入江啓四郎を招いて討議し,〈講和問題についての声明〉をまとめ,50年1月15日付で発表,全面講和の実現を要望した。その後,研究と討論を重ね,朝鮮戦争勃発後,同年9月に〈三たび平和について〉を発表した。…
※「安倍能成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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