日米安全保障条約(読み)ニチベイアンゼンホショウジョウヤク

デジタル大辞泉 「日米安全保障条約」の意味・読み・例文・類語

にちべい‐あんぜんほしょうじょうやく〔‐アンゼンホシヤウデウヤク〕【日米安全保障条約】

昭和26年(1951)9月、サンフランシスコ講和条約調印と同時に日米間で締結された条約。日本の安全を保障するため、米軍の日本駐留などを定めた。昭和35年(1960)新条約に改定され、軍事行動に関して両国の事前協議・相互協力義務などが新たに加えられた。期限は10年で、それ以後は通告後1年で廃棄できる。昭和45年(1970)から自動延長されている。正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」。安保条約。
[補説]全10条からなり、第5条と第6条が重要。
第5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
第6条
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。

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共同通信ニュース用語解説 「日米安全保障条約」の解説

日米安全保障条約

日米同盟の基礎となる条約。1951年調印の旧条約は、米軍による日本防衛を明確に義務付けていなかったため、60年に全面改定した。改定条約は、米軍に日本への基地設置を認める一方、日本が武力攻撃された場合、日米両国が「共通の危険に対処する」と記した。同時に、在日米軍の法的地位を定めた地位協定も結んだ。改定条約に署名した岸信介首相は衆院で条約承認の採決を強行。学生らのデモが激化する中、国会で自然承認され、6月23日に発効した。

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精選版 日本国語大辞典 「日米安全保障条約」の意味・読み・例文・類語

にちべい‐あんぜんほしょうじょうやく‥アンゼンホシャウデウヤク【日米安全保障条約】

  1. [ 一 ] 「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」の通称。昭和二六年(一九五一サンフランシスコで、平和条約締結と同日に調印され、同年発効。全文五か条。アメリカ軍の日本駐留の承認、第三国の日本駐留の禁止、外国の教唆・干渉による内乱時のアメリカ軍の出動などを規定する。昭和三五年失効。旧安保条約。
  2. [ 二 ] 「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」の通称。旧安保条約に代わるものとして昭和三五年ワシントンで調印され、同年発効。全文一〇か条。新しく相互防衛の義務などが加えられた。一応の期限は一〇年、以後は自動延長となり、また一年の予告でおのおの一方的に廃棄することができる。新安保条約。

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改訂新版 世界大百科事典 「日米安全保障条約」の意味・わかりやすい解説

日米安全保障条約 (にちべいあんぜんほしょうじょうやく)

アメリカと日本の軍事的関係を規定した条約。1951年9月8日サンフランシスコのアメリカ陸軍第6軍司令部で調印され,52年4月28日発効した。60年1月19日,改定条約が調印され,6月23日批准書が交換され,同日発効した。英文名は前者がSecurity Treaty between Japan and the United States of America,後者がTreaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of Americaである。前者にはアメリカ軍配備の条件を定める〈日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定〉(日米行政協定,1952年4月28日発効)および吉田=アチソン交換公文が付属し,後者には〈日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定〉(日米地位協定,1960年6月23日発効),および二つの交換公文,すなわち(1)条約第6条の実施に関する交換公文,(2)吉田=アチソン交換公文等に関する交換公文(岸信介首相とC.A. ハーター国務長官との間で作成・交換された)が付属している。

1950年4月にアメリカ国務長官の政策顧問となったJ.F.ダレスは就任当初から日本の安全保障政策として占領軍の段階的撤退と日本再軍備の意図をもち,51年初の来日時に日本政府に再軍備を勧説した。これに対し占領軍司令官マッカーサーに支持された吉田茂首相らは大規模な再軍備を不適当と主張し,アメリカ軍の駐留を求めた。朝鮮戦争(1950-53)の経験からアメリカ側は日本側の要望をいれることが得策であるとし,2月6日の事務レベル会談における提案で,平和条約に日本が個別的・集団的自衛権をもち,集団的安全保障取極(とりきめ)を締結できることを規定し,これをもとに,日米間にアメリカ軍の駐兵によって日本の安全保障に協力する主旨の簡潔な取極(協定,条約など)を結び,在日アメリカ軍の地位,特権などは行政協定に譲るという方式を示した。7月30日に提示されたアメリカ案でいわゆる〈極東条項〉が追加され,日本に駐留するアメリカ軍を〈極東における国際の平和と安全の維持〉および〈外部からの武力攻撃に対する日本の安全に寄与するために〉使用することができるとされ,事務的折衝を経て8月18日に日米間の意見が妥結,20日に案文(英文)が作成された。日本文は8月24日に作成され,8月25日〈日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約〉として最終案文が確定された。調印式は9月8日,サンフランシスコ講和条約が調印された当日の午後5時,吉田茂,D.アチソン,ダレス,A.ワイリー,S.ブリッジスによって調印された(発効は1952年4月28日)。この条約は,署名前の演説でアチソン・アメリカ国務長官が〈太平洋地域の平和と安全の防衛体制の一部を成す〉と述べたように,米・比,米・台,米・韓の相互防衛条約・協力関係やアメリカ,オーストラリア,ニュージーランド間の太平洋安全保障条約(ANZUS(アンザス)条約)と密接に結びついたアメリカ太平洋戦略の一環に位置づけられた。

 条約は前文と5ヵ条からなり,前文ではこの条約が講和条約の認める集団安全保障取極を締結する権利に基礎をおいたものであることを記し,日本側が,武装を解除された状態での暫定措置として,日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内およびその付近にアメリカが軍隊を維持することを希望し,アメリカ側は自国軍を維持する意思があることを示し,かつ日本が〈自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待〉するとされている。1条は,日本が日本国内とその付近にアメリカ軍を配備する権利をアメリカに与えること,その軍隊を〈極東における国際の平和と安全に寄与し〉,外国の〈教唆又は干渉によってひき起された大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて,外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる〉としている。これは,日本がアメリカ軍に基地貸与を認めたこと,かつそのアメリカ軍が日本以外の極東地域における戦争・武力紛争に出動しうること,および日本国内の内乱や騒じょうに介入しうることを認めたことを意味する。2条ではアメリカの事前の同意なしに,第三国に基地,駐兵,演習,軍隊の通過の権利を許与しないことを規定し,アメリカ軍配備の具体的条件はすべて行政協定にゆだねることにした(3条)。しかしこの条約ではアメリカは日本防衛の義務を明記せず,また日本も条文上は軍備増強等の義務は負わなかった。

 安保条約の締結に対しては多くの反対論,反対勢力があらわれた。憲法擁護・全面講和・非武装中立の運動を進めていた社会党,共産党,総評,進歩的知識人などは,この条約がアメリカ占領軍を平和条約発効後も引き続き駐留させる役割を果たし,そのアメリカ軍に基地を提供してアジアでの戦争を助け,日本がアメリカに従って冷戦に荷担する意味をもつ等の理由で反対し,日教組は〈教え子を再び戦場に送るな〉とのスローガンを掲げた。同条約が占領の継続という印象を与えたことは保守勢力の間にも反対論を生み,日本の政治的自主性が回復されないことへの不満とともに他方で日本が本格的に再軍備すべきであるという主張もあらわれ,この結果,1951年10月26日の衆議院における批准投票では賛成289票に対し反対71,欠席106を数えた。

1953年以来ダレスは国務長官に就任し,同条約の運用を指揮した。アメリカ側は日本の軍備増強を進めるためMSA援助を日本に提供することを明らかにし,その具体化のため53年10月,池田=ロバートソン会談が開かれ,翌54年3月日米相互防衛援助協定(MSA協定)が結ばれた。これに助けられて同年7月自衛隊法が施行され,保安隊は陸・海・空の3軍で構成される自衛隊へと変容し,14万6000人の兵員を擁するにいたった。しかしダレスらは30万~36万人への増強を求め,55年8月重光葵(まもる)外相が訪米時に安保条約の改定を提案した際も,現状では西太平洋の防衛に共同責任をもつことは不可能であるとして拒否した。この時期,アメリカ政府内にアジアにおける民族解放戦争の発展や社会主義勢力の伸張をおさえるため経済成長政策の推進を求める勢力が強まり,日本の経済的役割が重視されるようになって,軍備の急増を伴わなくても安保条約の改定に応ずるべきであるとする動きが強まった。57年,岸信介内閣が安保条約検討のため委員会設置についてアメリカと合意し,58年夏から事務的折衝に入り60年1月19日,新条約の調印が行われた。
執筆者:

新条約の発効により旧条約は失効した(9条)。新条約は前文と10ヵ条からなるが,旧条約と異なり,経済協力の促進(2条)を規定するため,名称に〈相互協力〉を冠する。旧条約は本質的には基地貸与条約であって,日本は日本とその付近へのアメリカ軍の配備を認め,この軍隊は,(1)極東における国際の平和と安全の維持のため,および,(2)外部からの武力攻撃に対し日本の安全に寄与するために(日本政府の明示の要請がある場合は,外部の干渉による大規模な内乱・騒じょうの鎮圧を含む),〈使用することができる〉と規定したが,アメリカの日本防衛義務を明記しなかった。これは,アメリカが相互防衛条約を締結する際の基本原則である,上院のバンデンバーグ決議Vandenberg Resolution(1948)の〈自助と相互援助〉の条件を,当時の日本が備えていないと判断されたからであった。したがって旧条約は,日本の防衛力漸増へのアメリカの〈期待〉を記す前文とともに,終期を定めることなく〈暫定措置〉とすること(4条,前文)によって,将来日本がそのような条件を満たししだい,本格的な相互防衛条約によってとってかわられるべきことを予定していた。

 1960年の新条約締結は,一方では50年代における日本の軍事力増強と経済発展,および政府による憲法9条解釈の転換(〈戦争の放棄〉の項参照)とによって,日本が〈自助と相互援助〉の条件を基本的には満たすようになったと判断されたこと,他方ではアメリカの世界戦略が同盟国の軍事力をより重視する方向で再編されたことによって実現したと考えられる。なお,基地闘争に見られるような,旧条約の不平等性への国民の批判や,1959年から60年にかけて高揚した安保闘争が,新条約に与えた複雑な影響も忘れてはならない。こうして60年の日米安全保障条約は,不完全ながら〈自助と相互援助〉に基づく相互防衛条約=軍事同盟条約となった。この観点から同条約の特徴を示す。

 第1に,この条約は,〈憲法上の規定に従うことを条件として〉ではあるが,自助と相互援助によって軍事力を増強することを,日米両国の条約上の義務とする(3条)とともに,この義務の履行を随時協議の対象とした(4条)。4条の協議は,日本の安全または極東における国際の平和と安全への脅威が生じたときにも行われるが,これを通じて,削除された旧条約の内乱条項が事実上再現する可能性も指摘されている。

 第2に,最も重要な点として,日米両国は5条により,〈日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃〉への,共同防衛を約束した。これは,個別的自衛権および集団的自衛権について定めた国連憲章51条に基づくものであり,共同防衛の対象たる武力攻撃が領域的限定を受けたのは,憲法9条を考慮してであると説明された。すなわち政府によれば,日本は憲法上集団的自衛権をもたないが,在日アメリカ軍への攻撃は同時に日本の領域への攻撃であるから,共同防衛は日本にとっては個別的自衛権の発動として合憲であるとされる(〈自衛隊〉の項を参照)。しかし,在日アメリカ軍への攻撃は,たとえば,日本の領海上の第7艦隊への攻撃のように,日本にとっては領海・領空侵犯のみで武力攻撃とならず,個別的自衛権発動の要件を満たさない場合もあり,この場合の共同防衛は集団的自衛権によらねば説明できないとの批判もある。

 第3に,この条約は,アメリカが極東の平和と安全の維持のために在日基地を使用できるとする〈極東条項〉を,旧条約から引き継いだ(6条)。この〈極東〉は,その防衛のためにアメリカが在日基地を使用しうる区域であって,〈大体においてフィリピン以北〉および日本とその周辺であるが,アメリカ軍の出動範囲はこれに局限されない,と説明された。この〈極東条項〉が日本を無関係な戦争に巻き込みかねないことへの国民の危惧を鎮めるためにおかれたのが,6条の実施に関する交換公文の〈事前協議prior consultation〉である。ここにおいて,(1)アメリカ軍の日本への配置の重要な変更,(2)その装備の重要な変更(たとえば核の持込み),および,(3)戦闘作戦行動(5条の場合を除く)のための在日基地の使用は,日米の事前協議の対象とされた。しかし,〈協議〉は〈同意〉ではないこと,日本には発議権がないことなどのほか,(2)については疑わしい場合の立入検査権が日本になく,核の〈持込みintroduction〉と違って〈通過transit〉は除外されている疑いが濃いこと,(3)については補給や移動は含まないことといった事情のために,その実効性に疑問がもたれており,事実,条約発効以来この規定は一度も発動されたことがない。

 この条約は,10年間効力を存続したのちは一方の締約国による終了通告があればその後1年で終了する(10条)とされているが,このような通告はなく改定も行われていない。しかし,その後の国際情勢と日米両政府による条約の位置づけの変化などによって,その具体的意義は変わってきた。1969年の日米共同声明と72年の沖縄返還とによって,極東の平和と日本の安全の不可分性が承認され,日本の局地防衛は自衛隊の責任とされるとともに在日アメリカ軍はアジアにおける抑止力と位置づけられるようになった。また,81年の日米共同声明以来,西側諸国の一員としての日本の地位と日米の同盟関係が強調され,安保条約はNATO(ナトー)とともに西側防衛の二本の柱の一つとされて,日米共同作戦計画が急速に具体化された。
執筆者:

安保条約に対しては,旧条約の下でもその実施に際しさまざまな反対運動が起こった。代表的なのは基地反対闘争で,1953年に本格化する内灘試射場事件をはじめ,浅間山基地化を阻止した運動(1953)や妙義山接収計画を撤回させた運動(1955年を頂点とする),北富士演習場使用問題(1955年以降),砂川基地問題(1955年以降)などが注目された(〈軍事基地〉の項参照)。とくに59年3月,東京地裁は,砂川事件(1957)に対し,アメリカ駐留軍は憲法9条違反であり,したがってアメリカ軍をとくに厚く保護する刑事特別法は違憲・無効とし,被告に無罪の判決を下し,高まりつつあった安保条約改定反対運動に影響を与えた。さらに1954年3月のビキニ環礁での水爆実験でマグロ漁船第五福竜丸が被爆した事件を契機に,原水爆禁止運動が飛躍的な発展をとげ,55年,原水爆禁止日本協議会が結成され,毎年日本で原水爆禁止世界大会を開くようになり,在日アメリカ軍の配置・装備の変化,とりわけ核兵器配備と核戦争の可能性についての論議が強められた。

 当時,ダレス国務長官が〈大量報復戦略〉を推進し,自衛隊の発足と強化がそれと関連していたことから,安保条約が日本を核戦争に巻き込む可能性が強いとか,自衛隊の海外派兵や内乱鎮圧の可能性が増す等の議論が,国民の戦争体験と結びついて広く受け入れられ,有力な世論となった。また岸内閣が57年〈国防の基本方針〉を国防会議で決定し,それに基づき〈第1次防衛力整備計画〉を翌58年から実施に移し,同58年10月,突如〈警察官職務執行法改正案〉を国会に上程したことは,これらが軍備増強と基本的人権の抑圧に象徴される戦前の政治体制への復帰を意味するという印象を国民に与え,軍国主義の復活あるいは民主主義の危機ととらえられた。さらに日中・日ソ貿易に厳しい制限を要求するアメリカの対日経済政策への反発も財界を含め広くみられたのであった。

 これらの諸要因は,岸内閣の安保条約改定交渉の開始を契機にいわゆる安保闘争が発展する基礎をなした。1959年3月,総評,社会党をはじめ諸社会団体によって日米安保条約改定阻止国民会議が結成され,4月15日の第1次統一行動を皮切りに60年10月の第23次統一行動まで持続的に国民運動を組織・指導する役割を果たし,全国で2000余にのぼる地域共闘組織に支えられてデモや国会請願運動を展開した。60年5月19日,安保条約案の批准が自民党の単独採決で強行されると,安保条約賛成者までが議会制民主主義擁護のために国会請願に加わり,運動は空前の規模に達し,労働者の政治ストも行われた。この安保闘争は,新安保条約の批准阻止には成功しなかったが(6月19日に自然承認),事前協議条項を挿入させ,またその運用を慎重にさせる役割を果たし,かつアイゼンハワー大統領の訪日を中止させ,岸内閣を辞職に追い込んだ。

新条約の運用は,日本首相とアメリカ大統領間の日米首脳会談をはじめ両国政府要人間の会談,日米安全保障協議委員会(1960年以降。日本側は外務大臣,防衛庁長官ら,アメリカ側は駐日大使,太平洋軍司令官ら),日米安全保障事務レベル協議(1967年以降。両国の防衛・外交当局の次官レベルで構成),日米安保運用協議会(1973年以降。日本側は外務省北米局長,防衛庁防衛局長,統幕議長ら,アメリカ側は駐日大使,在日アメリカ軍司令官ら)等を通じてなされ,また2条の運用をはかるために日米経済貿易合同委員会,日米文化教育委員会,日米科学合同委員会が設けられた(1961)。この間駐日アメリカ軍の兵力数は旧安保条約が発効した1952年の26万人から新安保条約発効時には4万5000人,71年には2万7000人にまで減少したが,72年の沖縄返還で沖縄駐留兵力が加わり6万5000人に増加,79年には空軍2万1600人を中心とする4万5000人となった。在日アメリカ軍施設・区域の件数は1952年4月の2824件,59年年度末の243件,67年年度末には145件となったが,72年年度末には172件,85年初には125件となった。その面積は1952年1353km2,59年に336km2,72年に549km2,85年に837km2となった。とくにそのうち地位協定第2条4項bによる施設(自衛隊の施設をアメリカ軍が一時使用するもの。現在使用していないものが多い)の件数,面積が,1982年ごろから急増し,85年初で22件,511km2となった。

 ベトナム戦争後,アメリカは世界戦略の中に日米安保体制をより重く位置づけるようになり,湾岸戦争(1991)で在日米軍の行動の敏速性と攻撃精度が最大であったという歴史的経験を経て,95年,アジア全域を対象とする地域紛争戦略へと転換してこの中軸に日米安保体制をすえる方針を公表した。ここで東アジアの前進配備米軍の兵力を当分約10万とし,このうち在日米軍を軍艦乗組員を含めて約6万とすることとなった。在日米軍基地は1997年1月現在で米軍管理地が314km2となっている。

 新条約発効後の日本側の軍事力増強は,第2次防衛力整備計画(二次防)が1962-66年に,三次防が67-71年に,四次防が72-76年と進められ,以後〈防衛計画の大綱〉に従って実施されることになった。

 1968年1月,佐藤栄作首相は核兵器を〈持たず,作らず,持ち込ませず〉の非核三原則を確認するとともに,核の脅威に対しては安保条約に基づきアメリカの核抑止力に依存する態度を表明した。しかし日本政府は,アメリカ軍が核兵器を持ち込んでいないことを確認する独自の手段をとらず,国会内外でしばしば核持込みの疑惑が出され,さらに元駐日大使ライシャワーらはのちに持込みの事実を証言している。69年11月,佐藤首相は日米共同声明で沖縄の戦略的重要性を認め,かつ〈韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要〉であり,台湾の安全も重要とし,安保条約をこれら諸地域と緊密に関連させて運用する意図を明らかにした。これをもとに佐藤内閣は沖縄返還交渉を開始し,71年返還協定に調印,72年5月発効し,沖縄県の施政権は日本に返還され,安保条約はここにも適用されるようになった。在日米軍基地はベトナム戦争(インドシナ戦争)に際して大々的に利用され,とくに沖縄基地はB52戦略爆撃機の発進基地となり,また海兵隊の訓練基地として重要視され,本土基地は兵站(へいたん)・補給,訓練,休養・慰安など多様な役割を果たしたが,このことは安保条約運用の実態を国民に印象づけ,ベトナム反戦運動の高まりとともに,安保条約反対の気運・運動が強まった。

 1975年の南北ベトナム統一後,日米軍事協力は急速に具体化され,78年11月,日米安全保障協議委員会で〈日米防衛協力のための指針〉(いわゆるガイドライン)が了承され,国防会議,閣議でも了承された。同指針は日米共同作戦計画についての研究,作戦,情報および後方支援の実施要領の策定などを規定した。これとならんで防衛庁・自衛隊幹部による共同作戦計画,有事立法の研究・策定が推進されるようになった。アメリカ軍と自衛隊の共同訓練は55年以来海上自衛隊とアメリカ海軍との間に対潜・掃海訓練を中心とし実施されてきたが,同時にアメリカ第3艦隊の実施するリムパックRIMPAC(Rim of the Pacificの略)にも80年以来海上自衛隊が参加するにいたった。航空自衛隊とアメリカ軍の共同訓練は1978年以来,陸上自衛隊の共同訓練も81年以来実施されてきた。

このように安保条約は,サンフランシスコ講和条約以後の日米関係の規定要因となり,その結果,国際社会における日本の位置や進路はアメリカの戦略的要請に沿うことを余儀なくされ続けた。近代日本の対外政策は,1902年の日英同盟のように当該時期の超大国との同盟または協力を主流としたが,安保条約を軸とする戦後政治はこの伝統を踏襲したものとなり,それは日英同盟の存続期間20年をはるかに超えて40余年に及び,超大国への依存の体質を決定的にした。

 この体質は,ソ連の崩壊により米ソ冷戦が終わった1990年代にむしろ強化された。日本は在日米軍の経費負担を軽減するために巨額の〈おもいやり予算〉を支出し,米軍が地域紛争への即応をめざし訓練を強化することを認め,在日米軍が中近東にまでおよぶ広範囲にわたって作戦に出動するのを支援してきた。67年に宣言された〈非核三原則〉も,日本政府は入港する米艦船に適用する努力を行ってこなかった。南太平洋非核地帯条約東南アジア非核地帯条約などの締結によってアジア・太平洋諸国は明らかに核軍備の忌避と廃棄に向かっているが,今や日米安保体制はこの潮流に逆行する要因として機能している。

 日本に対する諸外国の評価もこの点と関連している。朝鮮戦争,ベトナム戦争においては日本は出撃,訓練,兵站・補給,休養・慰安などの基地としての役割を果たし,交戦の相手国から協力・荷担を非難されたし,第1次防衛力整備計画以後の軍事力増強政策は〈軍国主義の復活〉と非難された。1950年代末以来の高度経済成長政策が進展すると,アジアの諸親米政権との間に交貿・開発援助が増加し,これら政権との関係は緊密化したが,その反面これら諸国民衆の中には〈経済的侵略〉〈軍事独裁政権の補強〉等と非難するものが少なくない。中国は72年日中国交回復が,米・中の関係改善の一環として実現すると,ソ連との対抗上安保条約や日本の軍備増強に対する非難をやめ,支持の態度に転換した。この事実は,安保条約に対する評価がその国とアメリカとの関係の変化によって容易に変わるものであることを示している(コラム参照)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日米安全保障条約」の意味・わかりやすい解説

日米安全保障条約
にちべいあんぜんほしょうじょうやく

正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」。「安保条約」とも略称される。1960年(昭和35)1月19日に署名され、6月23日に発効した。条約のほかに、合衆国の軍隊の地位に関する協定(いわゆる日米地位協定)をはじめ、交換公文、合意議事録がこれに付属し、またその実施のために多くの関係国内法が定立されており、それらがいわゆる日米安保体制を形成している。現行の条約は1960年の「安保改定」によって、旧安保条約(1951年9月8日調印、52年4月28日発効の「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」)に代替したものである。

[石本泰雄]

安保条約のおもな内容

安保条約のおもな内容は次のようである。

(1)第6条によって、米軍は日本における施設・区域の使用を許され、日本はこれを無償で提供すべき義務を負う。どのような施設・区域が提供され、または返還されるかは日米合同委員会における協議で決定される。施設・区域の維持のために日本側が提供する便宜は「地位協定」によって詳しく規定されるが、その範囲はきわめて広い。とりわけ、区域の提供については、「駐留軍用地特別措置法」があり、1997年には、沖縄での米軍用地の使用期限後も収用委員会の審議中は使用の継続を可能とする同法の改正も行われた。1999年9月現在の在日米軍の兵力は、陸軍1779人、海軍6329人、海兵隊1万8770人、空軍1万3743人である。

(2)第6条は、米軍に基地を供与する目的として、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」と規定している。米軍の基地維持の目的が、単に日本の防衛に限定されているのではなく、広く極東の平和の維持に及んでいることから、この規定は「極東条項」とよばれている。

(3)第3条は「武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力」を維持し発展させることを定め、さらに第5条は「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」に対しては、「共通の危険に対処するように行動する」ことを明示している。これによって、いわゆる相互防衛体制が構築されている。その運用を円滑化するために、両国は、随時協議するものとされ(4条)、そのために閣僚級で構成される「日米安全保障協議委員会」(SCC、1960設置。「2プラス2」ともいう。それ以前の日米安全保障委員会の後身)、次官級の「日米安全保障高級事務レベル協議」(SSC、1967設置)、局長級の「日米防衛協力小委員会」(SDC、1976設置)、日米安全保障協議委員会の下での局長級による臨時の「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会(沖縄日米特別行動委員会)」(SACO、1995設置)および地位協定の実施に関する局長級の「日米合同委員会」(JCC、1960設置)がある。そのほかに、防衛関連技術に関係する日米協力のため、局長級の「日米装備・技術定期協議」も開かれている。

(4)条約は、発効後10年を経過した後、すなわち1970年6月23日以後は、両国のいずれでも終了の通告をすることができ、その場合には通告後1年で終了することを規定している。実際に終了の通告は行われず、現在に至っているが、これを安保条約の自動延長または自動継続とよんでいる。

[石本泰雄]

安保条約をめぐる諸問題

安保条約をめぐるおもな問題点は次の諸点である。

[石本泰雄]

極東条項

在日米軍や基地は、太平洋軍総司令部(ハワイ)を頂点とする米国極東戦略の兵力の一環を形成している。条約上からも、それは日本防衛のためだけでなく、「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」に用いることが認められている(6条)。条約は極東の範囲を定義していないが、政府の統一解釈によると、「フィリピン以北、並びに日本及びその周辺地域で韓国や台湾の支配下にある地域」が含まれる。もっとも、「極東の平和と安全の維持に寄与するため」の行動は、これらの地域が直接に攻撃を受ける場合だけでなく、他の地域で発生した事態によって脅威を受ける場合にもとることができ、しかもそのような行動そのものは地域的に極東に限定されているわけではない。したがって、極東条項には、米軍の行動を実質的に制限する機能はほとんどないことになる。

[石本泰雄]

事前協議制度

在日米軍や米軍基地が、日本自身にとって望ましくない軍事行動のために使用される危険性や、日本領域への核兵器の持ち込みの危険性に対する歯止めとして、条約締結と同時に交換された公文で、「日本国から行なわれる戦闘作戦行動のための基地としての日本国内の施設及び区域の使用」と、「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更」とを日米両国の事前協議の対象とすることが約定されている。しかし、事前協議が「戦闘作戦行動」に限られ、補給・移動・撤退に及ばないこと、核兵器の持ち込みについてもその検証が不可能であることなどのため、その機能はもともと限られたものであった。事実、1960年(昭和35)当時、日米間で「在日米軍が朝鮮有事で出動するときに限って、事前協議は行わない」とする秘密の合意が存在したことは、1990年代中ごろに公開されたアメリカの外交文書の分析から確認されている。また1969年の沖縄返還に関する佐藤‐ニクソン共同声明では、極東の平和と安全の維持が日本の安全にとって不可分の要素であることが随所に強調され、事前協議に際して日本側が「前向き」の姿勢をとることが示唆された。「安保の変質」という批評が行われたのはそのためである。

 わが国が国是として堅持してきた「非核三原則」にもかかわらず、その当時、核兵器搭載艦の領海通過に関して、日本政府がこれを黙認していたことは、これもアメリカの公式文書からうかがえる。

[石本泰雄]

憲法問題

条約は第3条で「武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を維持し発展させる」ことを両国の義務としている。もっともそれは「憲法上の規定に従うことを条件」としているから、違憲の問題は生じえないと政府は説明してきたが、そもそもわが国の憲法第9条で、いわゆる自衛力の保有が認められるのかについてさえ、国民の間で憲法の解釈は分かれている。それは別として、条約は、第5条で相互防衛義務を規定している。相互防衛義務が発生するのは、「日本国の施政下にある領域における(日米の)いずれか一方に対する武力攻撃」(いわゆる日本有事)に限定されているから、政府は、これを「個別的自衛権」の範囲内にあるものとして、憲法第9条に違反するものではないと説明してきた。しかし、在日米軍基地は、「日本有事」に際してだけ用いられるのではない。米軍は、「極東の平和と安全」のために基地を用いることができる。このような行動の結果として、日本が外国から攻撃を受ける場合を想定すると、相互防衛は、日本の局地防衛のための共同行動というよりは、むしろいわゆる「極東有事」の際の極東戦略における日米共同行動の意味をもつことにならざるをえない。それはとりもなおさず、「集団的自衛権」の行使であり、憲法の許さないところではないかという深刻な問題を内包している。日米の軍事的結合関係が強まれば強まるだけ、それは「集団的自衛権」でなければ説明のつかぬ状態とならざるをえない。

[石本泰雄]

基地問題

在日米軍施設・区域をめぐる紛争は、一般に基地問題といわれ、旧安保条約の時代から現在に至るまで、大きな政治・社会問題となってきた。農地・漁場・入会(いりあい)権・用水権などの喪失に伴う生活上の脅威、誤射・墜落などの危険、核兵器持ち込みの不安、原子力艦艇の寄港や病院の設置などに伴う生活上の脅威、米軍軍人による犯罪や風紀問題、騒音・電波障害・危険物輸送・航空路制限、さらに地方財政の圧迫など、さまざまの問題がある。わけても、基地問題が、基地の集中度のきわめて高い沖縄にあって、もっとも深刻であることはいうをまたない。1995年9月の沖縄米兵少女暴行事件の発生後、日米間で沖縄日米特別行動委員会が臨時に設置された(1995年11月設置、1996年12月最終報告)のも、政府がしばしば沖縄「経済」の振興を強調するのも、2000年サミットの開催地を沖縄・九州に決定したのも、新紙幣の図柄に守礼門(しゅれいもん)を選んだのも、基地問題の緩和の必要があるためにほかならない。にもかかわらず、米軍普天間(ふてんま)飛行場の返還に伴う代替施設の設定問題(1999年12月名護市長岸本建男(きしもとたてお)が受入れを表明した)など、基地あるかぎり解決の困難な問題が後を絶たない。

[石本泰雄]

安保体制の政治過程

安保条約は、旧条約以来、しばしば国論を二分する政治問題となってきたが、そのことは、安保体制が絶えず政治的弱点を内包していたことを意味する。安保体制の展開過程は、相互防衛体制の完熟過程であるとともに、他方では、このような政治的弱点に対する対応過程であったといってよい。

 たとえば、第一に、1960年の安保改定、すなわち新安保条約の締結がそうであった。旧安保条約が、もっぱら米軍による日本の基地の使用権を規定するにとどまったのに対し、新安保条約は相互防衛体制を初めて明文化したのであった。しかし他方において、旧安保条約にみられた政治的弱点の克服のために、事前協議制度が取り入れられ、アメリカだけの判断で戦闘作戦行動のために基地が使用されたり、核兵器が搬入されたりすることが困難になるとして、「改定」のメリットとうたわれた。旧安保条約には期限の規定がなかったのに対して、新安保条約には廃棄条項が取り入れられた。これも世論の批判に対する対応であった。それだけに、これら事前協議制度や廃棄条項は、その後の実態としては機能しない結果となる。残るのは、これまでは明文の規定を欠いた日米相互防衛体制の明文化という体制本来の志向の実現であった。

 第二に、沖縄施政権返還もまた相互防衛体制の完熟化と政治的弱点の克服という両側面をもつものであった。1969年の日米共同声明と、それを基礎とする沖縄返還協定の締結は、それまで安保体制の最大弱点であったいわゆる沖縄の異民族支配の終結をもたらすものであったが、しかし、それによって沖縄の基地機能が削減されたわけではない。むしろ沖縄の基地機能を安定化させるためにこそ、沖縄の「施政権」の返還がなされたのであった。それと同時になされた事前協議制度の機能転換すなわちアメリカの戦略体制への日本のコミットメントの促進や、沖縄に配備される自衛隊による米軍部隊の補完といった体制本来の「進化」が図られたのであった。もとより、この両側面は矛盾を含むものであり、だからこそ1960年の安保改定の反対闘争や、1972年の沖縄返還協定の反対闘争を避けることはできなかったのである。

[石本泰雄]

日米安保再定義

冷戦後、それまで安保条約の事実上の目的であった「ソ連の脅威への備え」が失われることになり、戦略環境が変化した。そのため、日米安保の目的などの立て直し(日米安保再定義)が必要となった。再定義についてはアメリカの主導で1994年(平成6)から交渉が開始され、1年余りにわたって日米政府間で軍事・外交レベルの協議が行われたが、予定より半年遅れて1996年4月17日にクリントン米大統領と橋本首相(当時)の間で、「日米安全保障共同宣言」が発表された。「安保再定義」の集大成である。

 日米安全保障共同宣言は、第一に、日米安保条約を基盤とする日米関係が21世紀の「アジア・太平洋地域」における安定的情勢を維持するための基礎であることを確認している。すなわち日米安保のシフトをソ連の軍事的脅威への対抗から、アジア・太平洋地域の平和と安定へ移そうとするものである。ロシアが「中国がそれによって牽制(けんせい)されること」を期待してこの宣言を歓迎し、他方で中国がこれを警戒し批判したのは当然であった。

 第二に、この地域における約10万人の前方展開軍事要員からなるアメリカの軍事的プレゼンス(存在)を維持することが不可欠であることが再確認された。在日米軍基地および兵力の削減は行わないことを意味するが、同時に、沖縄に配慮を示すため、同地域の基地の整理・統合・縮小を図る決意を表明し、1996年11月までに沖縄日米特別行動委員会の作業を完了させるという約束が表明された。

 第三に、両国間の緊密な防衛協力が、日米「同盟」関係の中心的要素であることを認識したうえで、1978年に策定された「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)の見直しを開始することで一致したことが表明された。さらに1996年4月15日の「日米物品役務相互提供協定」(ACSA(アクサ))の署名を歓迎し、次期支援戦闘機(F-2)などに関する共同研究開発をはじめとする技術・装備の分野における相互交流を充実し、弾道ミサイル防衛(BMD)に関する研究における協力にも言及された。

 第四に、両国の「アジア・太平洋地域」の平和と安定のために努力する決意を示し、日米安保に支えられたこの地域へのアメリカの関与が、その努力の基盤となっていることを認識するとした。のみならず、日米安保が「地球的規模」の問題についての日米協力の基盤としての信頼関係の土台となっていることまで認識された。それは従来の「日本有事」への対応から、安保体制が「周辺有事」へと「法益」を広域化する「変質」を示すものであった。

[石本泰雄]

新日米防衛協力のための指針

長くタブー視されていた日米軍事協力が公然と前景に登場したのは、1975年(昭和50)8月の三木・フォード首脳会談である。そこで日米両国は、防衛協力のあり方を協議することで合意した。実際に翌年8月に、日米防衛協力小委員会が設置されて協議が開始され、1978年11月に「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)が策定された。しかし、1996年(平成8)4月の「日米安保共同宣言」(安保再定義)によって、安保条約が日本有事の際の日米防衛協力の枠をはずして、アジア・太平洋地域の平和と安定のための日米防衛協力に道を開いたのと呼応して、ガイドラインの見直し作業を開始することが表明された。実際に、1996年6月に日米防衛協力小委員会を改組してその作業が開始され、9月には日米安保協議委員会(2プラス2)がその第一次経過報告を了承し、平時、日本有事、周辺有事の3分野での防衛協力強化を検討することを確認した。1997年に小委員会が、ガイドライン見直しの「中間とりきめ」を発表、日本周辺有事を「周辺事態」とし、「たたき台」として日米協力活動の40検討項目を列挙した。これを受けて9月23日、日米安保協議委員会で新しい「日米防衛協力のための指針」(日米新ガイドライン)が合意された。これによって、日本周辺有事の際の、米軍に対する補給・輸送・整備・衛生・警備・通信などの後方地域支援や自衛隊施設や民間空港・港湾の提供、経済制裁が実施されたときの不審船舶の検査、非戦闘員を退避させるための活動、機雷除去など40項目を確認、日本側の軍事的役割は飛躍的に拡大されることになった。

[石本泰雄]

周辺事態法

新日米防衛協力のための指針を国内的に実施するためのわが国の国内法整備は、いわゆるガイドライン関連三法が1999年5月24日に国会で成立したことによっていちおう完成した。その中心的な法律が「周辺事態法(周辺事態に際してわが国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律)」である。この法律でいう「周辺事態」とは「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」とされている。この法律の内容は、次のとおりである。

(1)政府は、周辺事態に際して、後方地域支援、後方地域捜索救助活動、その他必要な対応措置を実施する。

(2)首相は、対応措置の基本計画について閣議の決定を求める。

(3)首相は、自衛隊の後方地域支援、後方地域捜索救助活動について、実施前に、または緊急の場合には実施後、速やかに国会の承認を求める。

(4)防衛庁長官(現防衛大臣)は、自衛隊による後方地域支援、後方地域捜索救助活動について実施要項を定め、実施を命令する。

(5)国は、地方公共団体や民間に協力の要請・依頼をすることができる(1999年7月、政府はこれらの協力の要請・依頼に関する政府解説案=マニュアルを作成した)。

(6)首相は、基本計画の決定・変更や、対応措置終了後の結果を国会に報告する。

(7)後方地域支援、後方地域捜索救助活動で、生命・身体の防護のために武器を使用することができる。

 以上の内容をもつ「周辺事態法」のほかに、同時に成立した「改正自衛隊法」により、緊急事態での在外邦人の輸送手段に船舶と船舶搭載ヘリコプターが追加され、また隊員や在外邦人らの生命・身体の防護のために武器を使用することができるものとされた。また「日米物品役務相互提供協定」(ACSA、1996年調印)の改定協定も同国会で承認された。それによって周辺事態に際しての活動で物品・役務を相互に提供できること、ただし武器・弾薬の提供は含まないことが定められた。これらのガイドライン関連三法の成立によって、周辺事態で日本が米軍を支援する枠組が整い、日米安保体制は、アジア・太平洋地域を視野に入れた新たな段階に入った。

[石本泰雄]

『安全保障問題調査会編『朝日市民教室 日本の安全保障』(1967・朝日新聞社)』『『法律時報臨時増刊 安保条約――その批判的検討』(1968・日本評論社)』『防衛省編『日本の防衛――防衛白書』各年版(ぎょうせい)』『外務省編『外交青書』各年版(佐伯印刷)』

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百科事典マイペディア 「日米安全保障条約」の意味・わかりやすい解説

日米安全保障条約【にちべいあんぜんほしょうじょうやく】

サンフランシスコ講和条約に基づき独立後の非武装日本の安全保障のため米軍の日本駐留を定めた条約(1951年調印,1952年発効)。安保条約と通称。日本は米国に駐留権を与えるが,駐留軍は日本防衛の義務を負わないという片務的形式をとり,米占領軍はそのまま日本に駐在することになった。在日米軍の施設・地位等に関しては日米行政協定で定められた。その後この条約に基づく米国の要請下に日本では自衛隊の増強が進められた。1958年以後全国的な安保反対運動(安保闘争)の中で日米両国は条約改定を強行,1960年新条約が成立し,同時に行政協定を改定した日米地位協定も発効した。新条約は,両国が自衛力の維持発展に努めること,日本および極東の平和と安全に対する脅威の生じた際には事前協議を行い得ること,日本施政権下の領域におけるいずれか一方への武力攻撃に対しては共通に対処・行動することなど,双務条約的性格が強められた。また期限は10年と定められ,以後は一方が終了意思を通告すれば,その1年後に失効すると定められた。1970年の期限切れに当たり,〈70年安保闘争〉が展開されたが,政府は引き続き条約の堅持を声明,以来自動継続されているが,その後の国際情勢の変化で,単なる日米間の関係から,日本が米国の世界戦略に積極的にくみする関係へと質的変化を遂げた。すなわち,安保条約の重点が基地供与から共同防衛へと移り,米国は日本に財政的負担と極東の秩序維持における役割分担を求めてきた。〔現状〕 1978年に日米安全保障協議委員会(1960年以降。日本側は外相,防衛庁長官など,米側は駐日大使,太平洋軍司令官など)で了承された〈日米防衛協力のための指針〉は日米共同作戦計画の基礎をなすが,冷戦終結後に対応するために1996年以降見直し作業がすすめられてきた。1995年に19年ぶりに改定された日本の〈防衛計画大綱〉では,従来の〈極東有事〉を〈日本周辺有事〉(1996年4月の日米安保共同宣言では〈アジア太平洋地域〉)とするなど,安保条約の範囲が拡大される方向にあったが,1997年9月に合意をみた新指針(ガイドライン)では,この〈日本周辺有事〉の際の日米の協力関係が前面に出された。この新指針を実行するために1999年にはガイドライン関連3法が制定され,他国の戦争への協力が公然と認められるにいたり,日米安保条約は新たな段階を迎えている。すでに海上自衛隊は1980年以来〈リムパック〉(太平洋沿岸の西側諸国海軍の合同演習)に参加しており,また1983年には対米武器技術供与の交換公文を締結してきている。この間,在日米軍基地をめぐる基地問題が持続しているが,その75%が集中する沖縄基地問題の比重は大きく,その返還・縮小をめぐって1995年日米特別行動委員会が設置され,また日米地位協定の見直しも課題となっている。
→関連項目ANZUS条約岸信介岸信介内閣清瀬一郎清水幾太郎周辺事態法砂川事件戦争の放棄竹内好日米密約日本バンデンバーグ決議藤山愛一郎米華相互防衛条約米韓相互防衛条約北海道新聞村山富市内閣

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日米安全保障条約」の意味・わかりやすい解説

日米安全保障条約
にちべいあんぜんほしょうじょうやく
Japan-U.S. Security Treaty

1951年9月8日に対日講和条約と同時に署名された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」Security Treaty between Japan and the United States of America(1952.4.28.発効)と,1960年1月19日に署名された「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」Treaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of America(1960.6.23.発効)の二つの条約の総称。
1951年に締結された旧条約は前文と 5条からなる。日本国内へのアメリカ軍の駐留を認め,この在日アメリカ軍は極東における平和維持に寄与し,外国の干渉によって日本に大規模な内乱,騒擾が発生して日本政府の要請があった場合,また日本が外部から武力攻撃された場合に出動できると規定した(1条)。アメリカ軍の具体的な配備などの条件は,旧条約と同日に発効した日米行政協定に定められた。
1960年に締結された新条約は前文と 10条からなる。日米間の政治,経済上の協力がうたわれ(2条),アメリカが日本を防衛する義務が明文化されて,日本が武力攻撃を受けて防衛行動をとった場合の国際連合安全保障理事会への報告義務,および同理事会が平和回復に必要な措置をとったときに行動を終止することを定めている(5条)。5条は,日本が他国から武力攻撃を受けた際にアメリカが集団的自衛権を行使して日本を防衛する根拠となっている。また「アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」として,アメリカ軍の日本での駐留を認めている(6条)。条約の効力は 10年で,その後は双方のいずれかが終了の意思を通告してから 1年後に無効となる(10条)。日米行政協定は日米地位協定として新たに締結された。新条約は 1970年に自動延長され,1972年の沖縄返還沖縄県も同条約下に入った。新条約の締結前後は,極東条項をめぐる安保改定問題など,内政上の大きな争点となり,在日アメリカ軍基地をめぐる紛争も続いたが,その後は条約の存在そのものが政治的な問題とされることは少なくなり,冷戦終結後も継続された。日米安全保障条約に基づく防衛協力の具体的なあり方に関する取り決めとして,1978年に日米防衛協力のための指針が発表され,1997年と 2015年に改定された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「日米安全保障条約」の解説

日米安全保障条約
にちべいあんぜんほしょうじょうやく
Treaty of Mutual Corporation and Security between Japan and the United States of America

サンフランシスコ平和条約に付随して,1951年9月8日に日本とアメリカの間に締結された軍事条約
1952年4月に発効。極東におけるアメリカ軍の軍事活動とアメリカ軍の日本駐留を規定したもの。駐留軍は,(1)極東の平和と安全の維持に必要な場合,(2)大規模な内乱・騒擾 (そうじよう) の鎮圧のため日本政府の要請があった場合,(3)外部からの武力攻撃が加えられた場合に出動できるとし,有効期限は不確定で,駐留条件は日米行政協定で定めることにした。この条約は日本の主権を侵し,極東におけるアメリカの反共軍事体制に日本を従属させるものであるが,1960年1月には改定条約が調印された(6月発効)。期限は10年で,内乱鎮圧条項を廃止し,アメリカ軍出動に関する事前協議条項を設けると同時に,相互防衛義務を規定して軍事同盟としての性格をいっそう強化した。このため国民的な反対運動が激化し,岸信介内閣を退陣に追いこんだ。その後中国の核保有やヴェトナム戦争の激化に伴い,条約の適用範囲は事実上東アジアの全水域に拡大され,1970年の条約改定期を前に再び反対運動が激化したが,佐藤栄作内閣によって自動延長となった。その後日米の軍事協力は進み,1999年には「日米防衛協力のための指針」(いわゆるガイドライン)が法案として成立。共同作戦や後方支援の規定が決められるにいたった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「日米安全保障条約」の解説

日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)

アメリカとの同盟関係を戦後日本の安全保障上の機軸として位置づけた条約であり,「平和憲法」下の軽武装路線を支えた日本の安全保障体制の根幹。1951年9月,サンフランシスコ講和条約調印と同時に署名された旧条約は,「基地貸与協定」としての性格が強い一方で,アメリカの日本防衛義務が明文化されていないうえ,米軍による日本の治安維持を想定したいわゆる「内乱条項」があった。60年1月に新条約が締結されたが,旧条約との主な相違点は国連憲章との関係を明確化し,「内乱条項」を撤廃し,条約の実施に関する協議制度および10年間の条約期間を設けたことである。新条約調印に際しては激しい反対運動が起きた。70年代末から日本は米軍に多額の資金提供を行っている。冷戦後には「日本の防衛」に加え「地域の安定」を重視すべきとの認識が生まれ,96年の「日米安全保障共同宣言」を通じて日米安保体制は再確認され,97年には新たな「日米防衛協力のための指針」(「ガイドライン」)が策定された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日米安全保障条約」の解説

日米安全保障条約
にちべいあんぜんほしょうじょうやく

1951年9月8日,日本とアメリカとの間で結ばれた,アメリカ軍の日本駐留を認めた条約
サンフランシスコ平和条約調印と同日,日本全権吉田茂首相とアメリカ全権アチソンがサンフランシスコで調印。翌1952年4月発効。内容は,アメリカ軍は(1)極東の平和維持に必要なとき,(2)日本政府の要請があって日本国内の大きい内乱を鎮圧するとき,(3)日本に外部から武力攻撃のあったとき,出動できる。(4)期限はなく,(5)破棄には,アメリカの承認が必要,(6)細目は,日米行政協定で決定,という不平等・片務的なもので,その承認をめぐって社会党は左右に分裂した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日米安全保障条約」の解説

日米安全保障条約
にちべいあんぜんほしょうじょうやく

1951年(昭和26)9月8日,サンフランシスコ講和条約と同時に調印,翌年4月28日発効。略して安保条約。前文と5条からなり,有効期間は定めない。第1条で,米軍が極東平和・安全を維持するため日本本土の基地を使用することを認めた。これは,在日米軍の地位を具体的に定めた日米行政協定の内容とあわせて,占領期からの継続の色あいが濃かった。また,前文で日本の自衛力増強を期待しているが,自衛力漸増とともにより対等な内容の条約に改正すべきだという要求が強まり,60年1月19日,日米相互協力及び安全保障条約が署名された。

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世界大百科事典(旧版)内の日米安全保障条約の言及

【ANZUS条約】より

…1国が武力攻撃を受けたときは,自国の憲法上の手続に従って共通の危険に対処することなどを定めている。この条約は,日本とのサンフランシスコ講和条約の締結(1951年9月8日)と対日占領解除に伴い,日本の軍国主義復活からオーストラリア,ニュージーランドを守るというアメリカによる保障の意味を持っていたが,同時に,前後して締結された米比相互防衛条約(1951年8月30日)や日米安全保障条約(1951年9月8日)とともに,アメリカのアジア地域における反共軍事体制の一環としての意味も持っている。さらにオーストラリア,ニュージーランドにとって,イギリスからアメリカへという軍事的パートナーの転換をも意味していた。…

【岸信介】より

…56年12月,同党総裁選で石橋湛山に敗れ,外相に就任したが,石橋首相の病気辞任により57年2月,首相に就任。58年,日米安全保障条約の改定交渉に入り,60年5月19日,衆議院で新条約を強行単独採決。同条約は6月19日,〈アンポ,ハンタイ。…

【戦争の放棄】より

… ところで憲法9条の戦争放棄および戦力の不保持に関する政府の解釈は,大きく分けて,(1)自衛権をも実質的に否定する見解をとった時期(憲法制定時から1949年ごろまで),(2)〈武力なき自衛権〉を肯定する見解をとった時期(1950年以降53年まで),(3)〈自衛力〉論にもとづいて軍事力による自衛権を主張するに至った時期(1954年以降),さらに,(4)1991年の湾岸戦争時の〈国際貢献〉論,およびPKO協力法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)の成立(1992年6月)を転機として自衛隊を一定の要件のもとに国連部隊(PKO)に参加させるに至った時期(1991年以降)の四つの時期に分けられる。(2)の時期は戦後日本の再軍備の始動期に相当するが,朝鮮戦争の勃発(1950年6月)とともに警察予備隊が創設され(1950年8月),またサンフランシスコ講和条約による片面講和の際に同時に締結された旧日米安全保障条約(1951年9月締結,52年4月28日発効)を背景として保安庁が設立され(1952年8月),保安隊・警備隊という実力組織が成立した。この時期,内閣法制局は,〈“戦力”とは近代戦争遂行に役立つ程度の装備,編成を具えるものをいう〉旨の〈統一見解〉(1952年11月)を発表し,〈その本質は警察上の組織である〉保安隊・警備隊を〈侵略防衛の用に供することは違憲ではない〉との見解をとった。…

【対日占領政策】より

…中国は会議に招請されず,インド,ビルマ(現ミャンマー)は参加を断り,ソ連,チェコスロバキア,ポーランドは条約に反対して調印しなかった。同日日米両国間に日米安全保障条約も調印され,講和後もアメリカ軍の駐留がつづき,日米関係を固定化させることとなった日米安保体制が成立した。両条約の批准国会では,賛否をめぐって社会党が左右に分裂するなど国論を分けたが,民主自由党の圧倒的な優勢の下に批准は成立し,52年4月28日講和が発効して占領時代を終わったのである。…

【藤山愛一郎】より

…57年,かねて親交のあった岸信介首相の強い要請を受けて外相に就任,58年の総選挙で当選し政界に入った。3年にわたって外相を務め,岸を助けて日米安全保障条約の改定と取り組み,60年1月,現行の日米安保条約を締結した。藤山の意図は不平等条約の是正にあったが,岸の政治的体質への国民の反発もあって,〈60年安保〉と呼ばれる国論の対立,抗争を招いた。…

※「日米安全保障条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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