八幡宮跡(読み)はちまんぐうあと

日本歴史地名大系 「八幡宮跡」の解説

八幡宮跡
はちまんぐうあと

[現在地名]八戸市根城 根城

城本丸跡の西隅に位置する。縁起によれば文明二年(一四七〇)神体の造営が行われ(新撰陸奥国誌)、永禄一二年(一五六九)の「八幡宮 別当東善寺永尊 大檀那八戸弾正少弼政義(政栄)」の銘をもつ洪鐘があったという(三翁昔語)。当初は西ノ沢にしのさわの西の丘陵地に建立されていたが、天正二〇年(一五九二)根城の破却後本丸跡に移され、明治初年売市うるいち村の天満宮に合祀された。

寛文五年(一六六五)の無量院の御立願状(常泉院文書)に「一八戸根城ノ八幡御弓御矢納上ル事」とある。


八幡宮跡
はちまんぐうあと

[現在地名]むつ市小川町二丁目

田名部たなぶ代官所跡の北に位置する。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に「一田名部古御館八幡宮 三間四面板ふき」とみえ、別当は常楽じようらく寺であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には「八幡宮 古館在税官処北 別当八峰山常楽寺 邑人不伝草創、中興、重直公御修補」とある。田名部館の鎮守とされ、篤焉家訓に「田名部館之内八幡鰐口銘 奉 田名部御館神納 天正七年八月十四日 八角安重」と記す。


八幡宮跡
はちまんぐうあと

[現在地名]立川市柴崎町一丁目

現在の奥多摩街道北側にあった江戸期の柴崎しばさき村の鎮守。当社の本地仏であった銅造阿弥陀如来坐像(諏訪神社蔵)銘に天正一四年(一五八六)三月一五日の年紀とともに「武州多東郡立河郷芝崎村八幡本地 再興願主 立河照重内女お禰々」とみえる。祭礼日は八月一五日で獅子舞が行われた。神主は代々宮崎氏が勤めており、同氏は享保(一七一六―三六)頃より諏訪社の神主も兼帯していたようである。宮崎氏は天明(一七八一―八九)頃より寺子屋を経営し、諏訪社の古文書には寺子屋の教材としての往来物が数多く含まれており、地域の地名を記した「柴崎往来」はその一つである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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