立川市(読み)タチカワシ

デジタル大辞泉 「立川市」の意味・読み・例文・類語

たちかわ‐し〔たちかは‐〕【立川市】

立川

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「立川市」の解説

立川市
たちかわし

面積:二四・三八平方キロ

東流する多摩川の北岸沿いに立地し、市域の南部は同川の沖積低地、北部は武蔵野台地となっている。北は武蔵村山市・東大和市・小平市、東は国分寺市・国立くにたち市、南は日野市、西は昭島市・福生ふつさ市に接する。市域南部を走るJR中央本線は立川駅でJR青梅線およびJR南武線を分岐し、北部を東流する玉川上水に並行するように西武鉄道拝島線が通る。JRと西武線を南北に繋ぎ、さらに多摩ニュータウンに延びる多摩都市モノレールも建設された。南東端部をかすめるようにして走る甲州街道(国道二〇号)は、柴崎の日野しばさきのひの橋交差点で奥多摩街道・新奥多摩街道(ともに主要地方道立川―青梅線)を分岐する。これに対し、市域北部を五日市街道(主要地方道杉並―あきる野線)が東西に通る。

〔原始・古代〕

旧石器時代の遺跡として立川段丘縁辺の向郷むかいごう遺跡がある。同遺跡の崖下には川の源流にあたる湧水があり、以後各時代の遺跡が残されている。旧石器時代の遺物としてナイフ形石器が数地点で発見されている。市域ではほかに砂川すながわ地区で槍先形尖頭器が何ヵ所かで採集されており、これらは狩猟場に遺された遺物の可能性がある。縄文時代では大和田おおわだ遺跡から早期撚糸文期の集落が、向郷遺跡からは早期末の炉穴や条痕文土器が発見されている。中期では広大な向郷遺跡があり、北東部に勝坂期の集落が、南西部には加曾利E式期を主体とした環状集落がある。環状集落は中央の二百数十基の土壙群、その外にピット群、さらにその外縁を住居群がめぐる構造である。大和田遺跡は中期中葉から後半にかけての集落でもあり、敷石住居も確認されている。奈良・平安時代の代表的遺跡は、立川段丘縁辺に立地する下大和田遺跡で、竪穴住居跡のほか大型の柱穴をもつ掘立柱建物跡も発見され、性格が注目される。平安期の集落は段丘下の沖積地にもあり、台の下だいのした遺跡が知られる。律令制下では多摩郡に所属。市域の一部が「和名抄」にみえる小楊おやぎ郷に含まれていたとする説がある。

〔中世〕

多摩川・あさ川流域の立川市・日野市一帯に日奉氏の宗頼を祖とする西党(武蔵七党の一)が土着し、当市域には立河氏が居住した。立河氏は「吾妻鏡」にみえる鎌倉御家人で、建治元年(一二七五)には六条八幡宮(現京都市東山区の若宮八幡宮社、中世は現同市下京区に所在)の再建費用を同じ西党の西氏・土淵氏らとともに負担している。文和二年(一三五三)以前には、多摩川北岸河岸段丘上に鎌倉建長寺の物外を開山として普済ふさい寺が建立された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「立川市」の意味・わかりやすい解説

立川〔市〕
たちかわ

東京都西部,多摩川の中流域にある市。 1940年市制。 63年砂川町を編入。地形上多摩川の沖積低地と武蔵野台地に区分される。鎌倉街道の要地で,中世以来立河氏の居城地となり,地名の由来ともなっている。 1889年甲武鉄道が開通し,1922年陸軍飛行第5連隊が移転,陸軍工廠,飛行機工場が建設されてから,軍需工業都市として発達。第2次世界大戦後アメリカ空軍の基地となったが,69年返還され,基地跡は昭和記念公園,広域防災拠点および陸上自衛隊駐屯地となっている。宅地化も著しく,住宅都市の性格も加えつつある。 JR立川駅は中央線,青梅線,南武線の分岐点で,駅前はデパートや専門店が集中し,商業の中心をなす。南部に国宝六面石幢 (せきどう) のある普済寺がある。北部に五日市街道筋の新田集落として開発された砂川地区があり,西武鉄道拝島線が通る。面積 24.36km2。人口 18万3581(2020)。

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