八郎潟干拓地(読み)はちろうがたかんたくち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「八郎潟干拓地」の意味・わかりやすい解説

八郎潟干拓地
はちろうがたかんたくち

秋田県中西部の八郎潟干拓したもの。八郎潟は男鹿(おが)半島にのびる陸繋砂州(りくけいさす)に囲まれた部分で、琵琶(びわ)湖に次ぐ大湖であった。東西12キロメートル、南北27キロメートル、面積約220平方キロメートル。水深は最深部で4~5メートルにすぎず、平坦(へいたん)な湖底は干拓に適する条件を備えていた。魚貝類が豊富で、ボラ、ワカサギ、エビ、ウグイウナギなどを漁獲し、湖岸には小魚を加工する佃煮(つくだに)業者が多く操業していた。

 干拓計画は安政(あんせい)年間(1854~1860)に払戸(ふっと)村(現、男鹿市払戸)の渡部斧松(わたなべおのまつ)が八郎潟疎水案を立案したのに始まり、明治以降も計画されたが財政その他の事情により、実現されずにいた。第二次世界大戦後、食糧増産の急務から、農林省(現、農林水産省)がオランダの技術協力を得て、1957年(昭和32)国の直轄事業として「国営八郎潟干拓事業」が着手された。1963年に中央干拓堤防が完成して排水が終了し、1968年には道路、用水路、排水路がつくられ、1977年に最終的な工事が完了した。この事業により、総延長52キロメートルの堤防の中に海面下3メートル、170.05平方キロメートルの干拓地が出現した。これは東京・山手(やまのて)線内の面積の約3倍にあたる。周囲には調整池(約45平方キロメートル)を残し、調整池と日本海の間には防潮水門を設けて海水の浸入防止と調整池の排水を行っている。干拓地の中央部には、経緯度交会点標示塔(東経140度北緯40度)がある。総工事費852億円。

 堤防内を村域とする大潟村は1964年(昭和39)10月に地方自治法の特例で誕生した。村名の由来は、平安時代の古文書によると、かつて八郎潟が大方(おおがた)とよばれていたことによる。6世帯、わずか14名の人口でスタートした大潟村は、全国から入植者を公募し、翌1965年に第一次入植農家(56戸)を迎え、1978年までの入植農家は589戸となった。入植者の出身地は北海道から沖縄まで、1都1道36県に及んでいる。2005年(平成17)現在の総農家数は501戸で、うち専業農家は321戸、第1種兼業農家は176戸、第2種兼業農家は4戸となっており、1990年からの15年間で専業農家は150戸減少した。干拓地の運営は1965年に設立された八郎潟新農村事業団により行われ、圃場(ほじょう)、集落用地の造成・整備、役場・学校など公共施設の建設、住宅の建設、入植訓練、営農指導が計られた。営農は最新かつ高度の技術を導入、トラクター、コンバイン、カントリーエレベーター(農産物乾燥調整貯蔵施設)を利用し、能率の高い経営方式がとられている。カントリーエレベーターはアジアで最大規模のもので、4万4000トンの処理能力をもち、高さ30メートルのサイロを80本有している。1戸当りの耕地面積は、当初10ヘクタールであったが、1974年に15ヘクタール規模の田畑複合経営に拡大された。農地は約1.25ヘクタールの大区画圃場となっており、大型農業機械が効率よく稼働している。1980年代前半までは水田と畑作が半々であったが、徐々に水田に移行し、現在はほとんどの経営耕地が田になっている。その背景として、村が特産品として力を入れていたアムスメロンをはじめとする畑作物が、多くの労働力を必要とする、価格が安定しないなどの理由で減少したことがあげられる。

 八郎潟干拓地は国が計画・実施したもので、大潟村はモデル農村を目ざした全国一の自作農集団であるが、国の減反政策などの影響で多額の借金から経営困難に陥った農家がでたり、離村するものがあったりした。食糧管理制度が廃止され、結果的に国の政策に振り回されるなど、農家の意欲と国の間には溝を抱えている。なお、2000年に干拓の歴史などを紹介する「干拓博物館」が開館している。

[柘植敏朗・宮崎禮次郎]

『『八郎潟干拓事業誌』(1969・農業土木学会)』『『八郎潟新農村建設事業誌』(1977・農業土木学会)』『戸沢鉄太郎著『大潟村発・コメ生産事情』(1995・秋田文化出版)』

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