渡部斧松(読み)わたなべおのまつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「渡部斧松」の意味・わかりやすい解説

渡部斧松
わたなべおのまつ
(1793―1856)

近世後期の篤農家。出羽(でわ)国檜山(ひやま)(秋田県能代(のしろ)市)に久保田藩足軽の子に生まれる。小さいころから農耕を手伝い、南部鎌(なんぶかま)の製造販売に従ったのち江戸に出て町奉行(ぶぎょう)方に仲間(ちゅうげん)奉公をした。1821年(文政4)叔父とともに男鹿(おが)半島鳥居長根(八郎潟(はちろうがた)沿岸)の開拓着手。難工事のすえ、4年後に開田に成功。藩の認可を得て新田村渡部村(南秋田郡若美(わかみ)町)約200石が誕生。以後水路開削を拡大して48年(嘉永1)には開墾田が500町歩ほどに及んだ。それにより斧松は郡方(こおりがた)開発取調役加勢(かせい)の任命を藩から受け、藩内の開拓を指導する立場となった。また、海岸警備の目的で渡部村からの農兵取り立ても行った。

[奈倉哲三]

『西岡虎之助著『老農渡部斧松翁伝』(1928・山喜房仏書林)』

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百科事典マイペディア 「渡部斧松」の意味・わかりやすい解説

渡部斧松【わたなべおのまつ】

出羽(でわ)国秋田藩の開墾家。渡辺とも。同国山本郡檜山(ひやま)の足軽の家の出。文政年中(1818年―1830年)叔父惣治とともに藩許を得て八郎潟沿岸鳥居(井)長根(とりいながね)原野の開墾に着手,用水路開削後の1825年,移住百姓により渡部村が開村した。同年惣治が没すると斧松が中心となって開拓事業を推し進め,村法22条を作成するなど農家経営の確立に努めた。斧松はのち藩内の開発,植林,水防,鉱山などにも参画した。→新田開発

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朝日日本歴史人物事典 「渡部斧松」の解説

渡部斧松

没年:安政3.6.4(1856.7.5)
生年:寛政5.12.4(1794.1.5)
江戸後期,秋田藩の農政家。父は 檜山所預多賀谷氏配下で松野組足軽渡部惣十郎。文政2(1819)年26歳のとき,叔父渡部惣治と共に秋田郡払戸村(南秋田郡若美町)鳥井長根の開墾に着手。男鹿寒風山麓の滝の頭(男鹿市)に水源を求め,全長8kmにおよぶ水路を開削。約150haの開田に成功し,渡部村を興す。これは藩の新田開発政策に基づく注進開の一種で,開発高の一部が藩庫に納められ,残りは渡部氏の知行地とされた。斧松はこのあと藩の開発方に登用され,領内の新田開発や古田の再興などに活躍した。<参考文献>西岡虎之助『近世における一老農の生涯』

(渡辺英夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「渡部斧松」の意味・わかりやすい解説

渡部斧松
わたなべおのまつ

[生]寛政5(1793).12.4. 出羽
[没]安政3(1856).6.4.
幕末の開墾事業家。秋田藩の足軽の子。文政2 (1819) 年秋田藩内八郎潟畔の鳥居長根の原野を開墾して渡部村 (現男鹿市) を開き,27年間を費やして 500余町歩を開墾した。のち士分に取り立てられて郡方開発調役となり,秋田6郡内の開拓,植林,河防などに尽くした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「渡部斧松」の解説

渡部斧松 わたなべ-おのまつ

1794*-1856 江戸時代後期の開拓者。
寛政5年12月4日生まれ。出羽(でわ)久保田藩(秋田県)の足軽の子。叔父惣治とともに文政4年より男鹿(おが)半島八郎潟西岸の鳥居長根を開拓,8年渡部村(南秋田郡若美町)をひらいた。のち士分となり開発取調役加勢に任命され,藩内の開拓,治水,殖産などに尽力。安政3年6月4日死去。64歳。

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367日誕生日大事典 「渡部斧松」の解説

渡部斧松 (わたなべおのまつ)

生年月日:1793年12月4日
江戸時代末期の和田藩の農政家
1856年没

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