百科事典マイペディア 「浅井氏」の意味・わかりやすい解説
浅井氏【あさいうじ】
→関連項目朝妻|延暦寺焼討|大浦荘
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
北近江の戦国大名。出自については,三条公綱落胤説,物部守屋後裔説などがあるが,俗説と思われる。《江北記》によれば,江北の守護京極氏の根本被官の1家に数えられているが,南北朝・室町期においては目だった活動を示す史料がなく,おそらく浅井郡丁野郷(滋賀県長浜市の旧湖北町)付近を本拠とした国人であったと思われる。応仁の乱ごろより活動が現れるが,勃興したのは亮政(すけまさ)のときで,京極氏の家督争いに乗じ,1525年(大永5)京極高清を本居小谷(おだに)城に迎え,主導権を握った。以後,久政の時代にかけて守護権の利用によって,しだいに国人層の被官化,領国形成を進めていったが,江南の六角氏の侵攻,京極氏の反撃などによって領国支配は安定しなかった。長政の時代になると独立した大名としての地位を確立し,さらに織田信長と結んで最盛期を迎えた。しかし70年(元亀1)信長と絶ち,姉川の戦で朝倉氏とともに大敗し,ついに73年(天正1)8月,久政・長政ともに自殺し,滅亡した。
執筆者:細溝 典彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
近江国(おうみのくに)(滋賀県)北半部の戦国大名。「あざい」と読むのが正しい。もとは近江半国の守護京極(きょうごく)氏の被官で、京極氏権力の衰退とともに急速に台頭し、亮政(すけまさ)のときの1523年(大永3)同じ京極氏被官である浅見氏、三田村氏、今井氏らと国人一揆(こくじんいっき)を結んで守護京極高清(たかきよ)を追放した。国人一揆から戦国大名化した典型例として有名である。亮政の子久政(ひさまさ)は領内の民政に手腕を発揮し、ついで1560年(永禄3)に後を継いだ長政が織田信長と同盟し、浅井氏の全盛時代をつくりあげた。ところが1570年(元亀1)越前(えちぜん)(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)と結んで信長に背き、姉川の戦いに敗れてからは居城小谷(おだに)城にこもり、ついに1573年(天正1)信長に攻められ、3代で滅亡した。
[小和田哲男]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…戦国時代には近江に難を避ける貴族,僧侶,文人も多く,彼らによって都の文化が伝えられた。 六角氏の領国経営もしだいに不安定となり,浅井氏の進出や家中の内紛に苦しんだ。内紛の中で1567年に制定された《六角氏式目》は,家臣の団結を図ったものであるが,翌年には上洛する信長軍に観音寺城を攻略され,六角義賢・義治父子は甲賀山中に逃れ,六角氏は衰亡した。…
…滋賀県東浅井郡湖北町の小谷山に築かれた典型的な中世の山城。浅井氏代の居城。小谷山は伊吹山の一支尾根で琵琶湖の北に位置し,西および南は湖北平野が開け,また北陸方面への交通を掌握できる要衝の地でもあった。…
…また惣は子孫のために,大浦荘や領主との合戦の由来を詳細に書き残すなど歴史意識にも目覚めていた。しかし戦国時代になり湖北に浅井氏が台頭すると,その支配下に組みこまれた。浅井氏への年貢未進は借銭・借米として累積し,しだいに惣財政を圧迫する一方,惣の中に浅井氏と被官関係を結ぶ者も現れた。…
※「浅井氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新