内原村(読み)うちわらむら

日本歴史地名大系 「内原村」の解説

内原村
うちわらむら

[現在地名]阿南市内原町

答島こたじま村の西に位置し、西は桑野くわの村。里として柳橋やなぎばし中分なかぶん成松なりまつ養松ようしよう竹内たけのうち筒崎つつさき、谷として柿谷・小谷大谷おおたに山越やまごし櫛谷くしがたにちよう宮田・弥・後是ごせ大谷おおたに・柳・明がある(阿波志)。天正一七年(一五八九)那東郡之内桑野村内原平瀬所兵衛分検地帳(桑野公民館文書)が残るが、これは元和八年(一六二二)に平瀬所兵衛が内原の給人となったため、天正検地帳から所兵衛分のみを書写したものとみられる(阿南市史)


内原村
うちはらむら

[現在地名]和歌山市内原

名草なくさ郡に属し、名草山の南に位置する。北は紀三井寺きみいでら村、西は布引ぬのびき村。かめの川が西流する。地名は大治二年(一一二七)八月一七日の紀伊国在庁官人等解案(林家文書)に「同神領毛見内原東堺」とみえる。日前宮領内原郷の地で、永仁三年(一二九五)三月二三日の内原郷検田取帳並検畠取帳写(紀家蔵)によると田地二三町九段三四〇歩(うち新田一町八段一八〇歩・塩地五町九段二〇歩)、畠地は九町九段六〇歩であった。


内原村
うちばらむら

[現在地名]鴨島町内原

中島なかじま村の北東に位置し、東は麻植塚おえづか村、北は喜来きらい村。文安五年(一四四八)一二月二二日の別当覚葉旦那職売券(仙光寺文書)によると、柿原かきはら(現吉野町薬師寺か)別当覚葉は「打原中務子孫」「打原右馬四郎右衛門」などの熊野参詣旦那職を十川先達(現仙光寺)に売渡しているが、この打原中務子孫や打原右馬四郎右衛門は当地の人物と思われる。慶長二年(一五九七)の分限帳では武藤小二郎知行分のうちに内原高一三二石、五十君三右衛門知行分のうち内原村之内高一四〇石とみえる。


内原村
ないばらむら

[現在地名]十津川村大字内原ないはら

たき川流域右岸に立地。当村から花瀬はなせ村・嫁越よめごし峠を越え、堂谷どうのたに(現下北山村)に出る旧道がある。十津川郷のうち。天正一五年(一五八七)一〇月一〇日の「和州吉野郡十津川内内原村」とする検地帳(風屋区有文書)には「たのうら」にいやしき五筆、「内原村」にいやしき三筆、耕地二筆三反に大豆、「たき川」に「マメソハ」を耕作する総作地高一五・一石がある。


内原村
うちはらむら

[現在地名]内原町内原

古矢こや川の南側の台地上に位置し、結城街道の南側にある。東は赤尾関あこおせき村。中世には藤原氏の一族那珂氏が住み、その支配下にあったと伝える。和光院過去帳(和光院文書)の慶長一五年(一六一〇)に「内原」とみえる。同七年秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に内原村四八九・四八石とあり、元禄郷帳にも「内原村」とある。「各村旧高簿」によると幕末維新期には宍戸・笠間両藩領および四旗本領が錯綜していた。元治元年(一八六四)の元治甲子の乱には鯉淵勢に参加し、高野村留書(村沢文書)によると多賀外記の配下として転戦するなかで、「内原村 百姓 清介」ら三名が戦傷死している。


内原村
うちはらむら

[現在地名]大宇陀町大字内原うちわら

小付こうづけ村北方、宇陀川中山なかやま川合流地付近に立地する。鎌倉期の宇太水分神社古図によると野入のいり(野依)村と麻生田あそだ村の間に「野中」の村名を図示する。現内原の地域に相当し、小字「野中口」が残っている。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「野中庄」とあるのも当地域のことであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android