内間村
うちまむら
[現在地名]浦添市
内間・内間一―五丁目・
勢理客一丁目・
宮城六丁目
沢岻村の西、南の真和志間切境を西流する安謝川右岸に位置。近世史料には安謝村ともみえ、「琉球国由来記」には内間・安謝の両方がみえる。間切集成図では安謝川を挟み、真和志間切安謝村(現那覇市)・浦添間切安謝村の集落が描かれている。伝承によれば現那覇市安謝を前安謝、浦添市内間を後安謝と称したという(浦添市史・内間字誌)。絵図郷村帳には「あじや村」、「中山伝信録」には内間村として記載される。「琉球藩雑記」以降の史料では内間村に統一される。なお事々抜書には浦添間切安謝村は同間切内間村のことと注記がある。第二尚氏三代尚真(在位一四七七―一五二六年)代に獅子舞を伝えた公事の覡「茶後軒丸」(「おもろさうし」八の二には「きやのうちぬきまる」とある)が村立てしたという伝承がある(「沖縄の古代部落マキョの研究」「内間字誌」など)。
内間村
うちまむら
平安名村の南東、勝連半島のほぼ中央部に位置する。北は与那城間切与那城村(現与那城町)、南は中城湾に面する。絵図郷村帳・琉球国高究帳などにはみえず、「琉球国由来記」「琉球国旧記」に村名がみえる。里積記によれば田畑とも中の村位。当村は与那城間切と勝連間切に境界が設けられた際に南風原村の一部南方(宇炭原)の田を多く与えられ、その耕作に便利なように集落を南風原村前川原に移した。だが乾隆五三年(一七八八)、他村に集落があることの不便を理由に旧地に戻ったという(「球陽」尚穆王三七年条)。咸豊一一年(一八六一)、当村の前任夫地頭浜崎親雲上の善行を賞して爵位が与えられている(同書尚泰王一四年条)。
内間村
うちまむら
[現在地名]西原町内間・上原
棚原村の南東にあり、西に耕地が広がる。絵図郷村帳に「内間村」とみえる。琉球国高究帳では「内間村・こはしきや村」として一括され、高頭四五七石余、うち田三九六石余(うち永代荒地一〇一石余)・畠六〇石余。内間掟が置かれていた(琉球国由来記)。第二尚氏初代国王尚円となる金丸は景泰五年(一四五四)に内間地頭に任じられ、その後尚泰久王・尚徳王の身近に仕えたが、成化四年(一四六八)には内間に隠遁した。この時の住居跡がのち嘉手苅村に建造される内間御殿である(「球陽」尚円王附紀条)。金丸は当初当村に居住したが、その後嘉手苅村に移ったとの口碑がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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