別名村(読み)べつみようむら

日本歴史地名大系 「別名村」の解説

別名村
べつみようむら

[現在地名]今治市別名

今治平野の西部、蒼社そうじや川北岸に位置する地味肥沃の平地村で、南北に細長い。東は小泉こいずみ村、西は高橋たかはし村、北は矢田やた村に接し、蒼社川の対岸は徳重とくしげ村である。集落は北部の山麓と中央今治往還に沿って並ぶ。村の南部は度々蒼社川氾濫の被害を受けた。

弥生中期を代表する中寺式土器を出土し、丘陵には古墳群がある。条里の遺構も残り、この地域は「和名抄」の高橋郷に含まれていたものと思われる。元応二年(一三二〇)一〇月二〇日付宛行状(三島家文書)には「高橋別名」とみえる。大山祇おおやまずみ神社の社家大祝の屋敷や所領があり、今も大祝屋敷跡には五輪塔などの石塔群が残る。


別名村
べつみようむら

[現在地名]斐川町名島なしま

北流する斐伊川右岸の小村。北東井上いあげ村、南は北島きたじま村、西は斐伊川を挟んで武志たけし(現出雲市)

〔中世〕

古代末から中世初期に武志郷から分村したと考えられる。康元元年(一二五六)一二月日の杵築大社領注進状(北島家文書)に杵築大社(出雲大社)領武志郷の別名村(田数一〇町四反二四〇歩)として記される。その内訳は神田四反一二〇歩を含む除田が二町二反三〇〇歩に対して、定田八町一反三〇〇歩であった。


別名村
べつめいむら

[現在地名]四日市市別名一―四丁目・大宮西おおみやにし町・羽津甲はづこう

米洗よない川の南に位置し、西方は低い丘陵、北はいかるが村。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降おし(現行田市)藩領。天保一三年(一八四二)幕府領信楽しがらき(現滋賀県)代官所支配、嘉永七年(一八五四)再び忍藩領、慶安・元禄・天保の各郷帳とも羽津はづ村の枝郷とする。

宝永八年(一七一一)村差出帳(徳川林政史蔵)によれば、田方一八町六反余のうち二反余、畑方四町四反余のうち一町五反余は「寅卯辰ノ起」。このほか村高に含まれない畑三反六畝余の「未之起」の新田がある。助馬金として金二分と銀一匁四分九厘の負担が課せられた。これは馬一疋の七分にあたる。


別名村
べつみようむら

[現在地名]上郡町別名

下栗原しもくりばら村の北、安室やすむろ川になしはら川が合流する地に形成された八保やほ盆地の東部に位置する。山野里やまのさと村からの道は当地で分岐し山伏やまぶし峠、高山たかやま村、落地おろち村へと三方に通じる。江戸時代の領主の変遷は下栗原村に同じ。慶長八年(一六〇三)池田輝政は当村のうち一六一石余を田中兵助に宛行っている(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)。同一四年の安室之内別名村検地(竹内家文書)によれば、田方八町九反余・畠方二町二反余・屋敷地一反八畝余(一六筆)正保郷帳では田高一五二石余・畠高二六石余。


別名村
べつみようむら

[現在地名]北勢町別名

垣内かいと村の北東、員弁川支流の多志田たしだ川の南岸に位置する。治田はつた郷八ヵ村の一つ。「神鳳鈔」に「保々別名六石九斗」とあり、中世この地に伊勢神宮領が存在したことが認められる。「五鈴遺響」は地名の由来を「別名ノ称此ニ起レリ」としている。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば、幕府領で高四〇〇石。他の七村同様、享保一一年(一七二六)から明治維新まで上総一宮藩領。

明治五年(一八七二)の村明細帳(徳川林政史蔵)記載の村高は、文禄検地で四〇〇石、うち一〇一石余が無地高となっている。寛文四年(一六六四)検地でも同様で、残高三〇〇石弱、元禄七年(一六九四)検地で三四・七一五石の新田畑が増している。


別名村
べつめむら

[現在地名]加西市福居町ふくいちよう

きし村の西に位置し、八千種やちくさ春日かすが山系を背後に、前方は久保木くぼき山に囲まれる久保木谷に立地する。寛文―延宝(一六六一―八一)頃に岸村から分村したとされる。貞享三年(一六八六)の岸・別名検地帳(福居町有文書)では高一四八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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