刪定律令 (さくていりつりょう)
日本古代の法典。〈さんていりつりょう〉とも読む。24条よりなり,769年(神護景雲3)吉備真備,大和(倭)長岡らが撰し,791年(延暦10)施行され,812年(弘仁3)停止された。日本における体系的な律令法典の編纂は大宝律令につぐ養老律令で終わり,その後の律令法の部分的改正は法典そのものを改めることなく,詔,勅などで公布される単行法令すなわち格(きやく)によって行われたが,この刪定律令は24条という限られた条文についてではあるが,養老律令の条文そのものを修訂したものと推定される。もともと大宝律令にも養老律令にも,条文相互に矛盾する規定や,解釈に疑義を生ぜしめる条文が存したので,そうしたものを刪定したのであろう。これとは別に797年には神王(みわおう),橘入居らの撰する刪定令格(さくていりようきやく)45条が施行されたが,刪定律令,刪定令格いずれも今日残されておらず,詳しい内容は明らかではない。
執筆者:早川 庄八
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
刪定律令
さくていりつりょう
8世紀末に撰定(せんてい)された法令。769年(神護景雲3)右大臣吉備真備(きびのまきび)と、養老(ようろう)律令の編集にあずかったことのある大和長岡(やまとのながおか)らが、養老律令中の24条について、字句を改正し、前後の矛盾を手直ししたもの。791年(延暦10)に施行したが、行政上かえって煩雑となり、812年(弘仁3)廃止となった。日本における律令編纂(へんさん)はこれで終わり、かわって、個別的に律令の修正・追加や施行細則である格式(きゃくしき)の編纂が本格化することになる。刪定律令とは別に、791年神王(みわのおう)、橘入居(たちばなのいりい)は「刪定令格四十五条」を奏し、797年から施行されたが、刪定律令と同じころ停廃になったらしい。
[八木 充]
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刪定律令
さんていりつりょう
「さくていりつりょう」とも。769年(神護景雲3)右大臣吉備真備(きびのまきび)と大和長岡が編纂した法律。律令条文の矛盾や不適切な表現をただした24条からなる。791年(延暦10)詔により施行されたが,812年(弘仁3)廃止された。「令集解(りょうのしゅうげ)」の跡記や穴記に「刪定令」「刪定」とあるものは,「刪定律令」もしくは「刪定令格(きゃく)」の逸文と考えられる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
刪定律令
さんていりつりょう
平安時代初期,神護景雲3 (769) 年吉備真備らが制定した 24ヵ条の律令。『養老律令』の不備を改めたもので,延暦 10 (791) 年より弘仁3 (812) 年まで適用されたが,条文は現存しない。
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世界大百科事典(旧版)内の刪定律令の言及
【律令格式】より
…
【中国】
律・令・格・式なる4種の法典は歴代の政府が発布した六法全書のごときもので,古くは戦国時代に淵源し,唐代に至って最も完備されたが,宋以後変化が起こり,あるいはその重要性を失って新出の法典に座を譲り,あるいは形式名称を変えて旧面目を失うものが多いなかに,ただ律は明代に復興して大[明律]となり,さらに大[清律]となって清朝末期にいたった。 現今目睹しうる最古の刑法である律は秦律であり,1975年湖北省雲夢県の睡虎地で秦代の墓から1000余枚の竹簡を発見した中に,占卜書2種を除くほかはおおむね政治,法律に関する文書であり,数種類の秦律が含まれていることがわかった([睡虎地秦墓])。…
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