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前田利長 まえだ としなが

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美術人名辞典の解説

前田利長

安土桃山・江戸前期の大名。利家の長男。幼名は犬千代・孫四郎安土桃山・江戸前期の大名。加賀金沢藩主。前田利家の長男。幼名は犬千代・孫四郎、初名は利勝。父と共に織田信長、次いで豊臣秀吉に仕え、多くの戦功をたてた。関ヶ原の戦には徳川方に参加し、その功により、加賀・能登・越中三国を領した。慶長19年(1614)歿、52才。初名は利勝。関ケ原の戦には徳川方に参加し、その功により、加賀・能登・越中三国にまたがる百十九万石の大大名の地位を築いた。慶長19年(1614)歿、53才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

前田利長 まえだ-としなが

1562-1614 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)5年1月12日生まれ。前田利家の長男。慶長3年父の隠居で加賀金沢藩主前田家2代となる。同年権中納言。4年徳川家康との関係が悪化,母芳春院(ほうしゅんいん)を人質として江戸にだした。関ケ原の戦いで東軍につき,のち加賀・能登(のと)・越中3国に119万2700石余を領した。10年隠居して越中にうつる。茶は千利休(せんの-りきゅう)の弟子。慶長19年5月20日死去。53歳。初名は利勝。通称は孫四郎。
【格言など】皇家に藩屏し忠に懈(おこた)る勿(なか)れ。幕府の命に違(たが)う勿れ。政事を荒失する勿れ。愛憎を以て訟獄を決する勿れ(遺言)

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朝日日本歴史人物事典の解説

前田利長

没年:慶長19.5.20(1614.6.27)
生年:永禄5.1.12(1562.2.15)
江戸時代外様大名。加賀(金沢)藩第2代藩主。前田利家の長男。母は芳春院(前田氏)。慶長3(1598)年家督を継ぎ,翌4年父利家の死後五大老に列した。同年9月徳川家康に加賀征討の動きがあると,母芳春院を江戸へ人質に出し,徳川秀忠の娘珠姫を嫡嗣の利常の嫁に迎えることを約束して和解した。翌5年関ケ原の戦では徳川方(東軍)に付き,北陸の西軍大名を征討しその功により,加賀国江沼,能美両郡と西軍にくみした弟前田利政の能登一国も還付されるなど加賀,能登,越中の大半を支配した。10年家督を利常に譲り,富山城(14年より高岡城へ移る)に隠居したが利常の藩政初期にも政治を総覧している。終生徳川氏との融和を図り,前述利常に徳川秀忠の娘を迎えたり,家康の側近本多正信の次男で正純の弟,本多政重を5万石の大禄で重臣に召し抱えている。その治政は農政では新田開発と慶長10年越中の総検地を行い,棟別銀制度や夫役の夫銀化を図るなど徴税法を整備した。さらに家臣団の統制にも意を用い,豊臣の世から徳川の世へ移り行くなかで,前田家の存立のために努力していたのであり,慶長19年には病が重くなるなかで,自分の領知を幕府の意にまかせる願いを出しているほどである。

(和泉清司)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

まえだとしなが【前田利長】

1562‐1614(永禄5‐慶長19)
安土桃山~江戸初期の大名。加賀藩2代藩主。初名利勝。通称孫四郎,肥前守。利家の長男。1581年(天正9)織田信長の女と結婚して越前府中を与えられ,83年賤ヶ岳の戦ののち加賀松任に移り,85年の越中征伐ののち越中守山城主となった。87年の九州征伐,90年の小田原征伐に従軍,92年(文禄1)の文禄の役には豊臣秀次に属して京都を守護した。98年(慶長3)家督を継ぎ,翌年利家の死にともない五大老の一員となったが帰国し,関ヶ原の戦には東軍に属して所領を安堵され,1605年隠居,そして豊臣氏の滅亡を前にして病没した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

前田利長
まえだとしなが

[生]永禄5(1562).尾張
[没]慶長19(1614).5.20. 高岡
安土桃山~江戸時代初期の大名。第2代加賀藩主。利家の子。母は高畠左京大夫道吉の娘。幼名は犬千代。初めは利勝といった。織田信長,豊臣秀吉に仕え慶長4 (1599) 年家を継ぐ。関ヶ原の戦いでは東軍に属し,加賀,能登,越中の3国を与えられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

前田利長
まえだとしなが
(1562―1614)

安土(あづち)桃山時代・江戸初期の武将。加賀藩第2代藩主。利家(としいえ)の長子。幼名犬千代、のち孫四郎。利家とともに豊臣(とよとみ)秀吉の臣として各地に転戦、1598年(慶長3)利家の退老により家督を嗣(つ)ぎ、五大老に列し、肥前守(ひぜんのかみ)、従三位(じゅさんみ)、権中納言(ごんちゅうなごん)に任ぜられた。秀吉の遺児秀頼(ひでより)の哺育(ほいく)に任じ、その立場は微妙であったが、関ヶ原の戦いの直前に徳川家康に屈し、実母芳春院を人質に出し、家康の孫(秀忠(ひでただ)の二女珠姫(たまひめ))を弟利常(としつね)の夫人に迎えることを約した。戦後、加越能3州で120余万石を領し、譜代(ふだい)・外様(とざま)を通じて最高禄(ろく)の大名となった。病のゆえをもって1605年(慶長10)封を利常に譲り、越中(えっちゅう)富山・高岡などに隠栖(いんせい)したが、1614年(慶長19)5月、大坂冬の陣の直前、関ヶ原の戦いの場合と同様、大坂方に参戦するように勧誘を受け、怏々(おうおう)たるうちに病死した。[若林喜三郎]

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世界大百科事典内の前田利長の言及

【大聖寺】より

…地名は白山五院の一つ,大聖寺があったことによるという。1600年(慶長5)8月,徳川家康の命で加賀藩2代藩主前田利長は,西軍に属する大聖寺城を攻撃して城主山口宗永を自刃させ,関ヶ原の戦の前哨戦として百万石大名の地位を確保した。城は15年(元和1)廃されたが,39年(寛永16)3代藩主前田利常は大聖寺藩7万石を分藩し,三男利治を藩主とした。…

【高岡[市]】より

…小矢部(おやべ)川河口の伏木には越中国府,国分寺が置かれた。江戸初期この地に築城した前田利長が砺波(となみ)郡西部金屋(にしぶかなや)村から招いた7人の鋳物師(いもじ)によって始められた鋳物製造は,高岡が銅器,梵鐘,なべ,かまなど金属製品の製造によって繁栄する基礎となった。一方,伏木港を中心とした地区には第1次大戦前後から近代的な工場が進出した。…

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