豊臣政権の職制。豊臣秀吉の遺言状案では〈おとな五人〉といわれ,1598年(慶長3)9月の起請文写しでは五奉行と合わせて十人の衆と呼ばれている。豊臣政権最高の施政機関で,構成は徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝からなり,家康と利家とが上首であった。1595年(文禄4)の起請文前書によれば,家康は坂東の法度置目公事篇の儀を,輝元と小早川隆景とは坂西のそれを委任されているし,秀吉の遺言状によれば利家は秀吉の盟友であって豊臣秀頼の傅(ふ),宇喜多秀家は豊臣氏と一体であった。上杉景勝はおそらく97年死没した小早川隆景に替わったものであろう。この意味で五大老は豊臣政権を構成する分権的大名の上首ならびに豊臣氏と親族的近縁関係にある昵懇(じつこん)大名とによって構成されているといえよう。この五大老の原型は,1595年の豊臣氏掟書(大坂城壁書)にみられる。すなわち5条の掟では家康,秀家,利家,輝元,隆景の5名が,掟追加では上杉景勝を加えた6名が署名し,隆景までの5名は乗物免除の特権を与えられ,〈おとな〉たるにふさわしい待遇を得ていた。しかし秀吉がとくに五大老の制を定めたのは五奉行制と同じく98年7,8月ごろであろうといわれている。五大老は五奉行と合わせた十人の衆として政務を処理するよう遺命されているが,とくに五奉行は五大老の上首である家康と利家に指揮・監督を仰ぐよう指示されていた。そして家康は伏見城にあって政務を処理し,利家は大坂城にあって秀頼の傅育にあたる態勢がとられた。秀吉没後における五大老の施政は,朝鮮出兵将士の帰還,一部の論功行賞,知行充行(ちぎようあてがい)などにみられるが,利家が秀吉の死の翌年死没すると,家康が事実上権力を掌握して前田利長や上杉景勝は帰国し,五奉行制も石田三成の失脚,浅野長政の閉居によって解体したため,五大老・五奉行の合議制はついに崩壊した。そして関ヶ原の戦によって毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝らが敗れたので,家康の権威が確立した。
執筆者:岩沢 愿彦
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豊臣(とよとみ)政権の職名。年寄衆(としよりしゅう)ともいい、また、五奉行(ぶぎょう)とあわせて十人衆とも称した。1595年(文禄4)8月、豊臣秀吉は、死後の政局の安定と幼少の秀頼(ひでより)の補佐を図り、徳川家康、前田利家(としいえ)、毛利輝元(もうりてるもと)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)、宇喜多(うきた)秀家の5人を政治上の最高顧問に委嘱し後事を託した。97年(慶長2)隆景の死後、上杉景勝(かげかつ)が任ぜられた。98年の秀吉の死後、利家は大坂城の秀頼の補佐に、また家康は伏見(ふしみ)城において政務をとるようになり、五大老は、五奉行の職権を奪って、諮問機関から政務執行の機関となっていった。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いにより崩壊した。
[佐々悦久]
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豊臣政権末期の職制で,五奉行の上位。徳川家康・前田利家(のち同利長)・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の5人の有力大名をいう。1598年(慶長3)8月頃,豊臣秀吉が死後の重要政務をこの5人に託したことに始まる。家康が伏見城にあって政務を総覧し,利家が大坂城で秀頼の後見をする体制だったが,翌年閏3月利家が没したことにより急速に解体し,家康の独裁的体制となった。原型は1595年(文禄4)の豊臣秀次滅亡後,先の5人に小早川隆景を加えた6人が御掟を発布した時点にさかのぼる。五大老の呼称は「太閤記」によるが,秀吉の浅野長政への遺言状では奉行と称している。
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…文禄4年(1595)8月3日付け徳川・宇喜多・前田・毛利・小早川諸氏連署条目並びに同追加をいう。追加の署名には上杉景勝を加えて6名とするが,この人々は後のいわゆる豊臣氏五大老に当たるから,この条目は豊臣氏五大老の署名による大名・公家・門跡統制令ということができる。そしてこの条目は,豊臣秀頼の家督継承が確定し,同年7月いわゆる五大老・五奉行並びに在京諸大名が忠誠を誓ったその翌月発布されており,秀頼による豊臣政権の基本的法令とみなすことができる。…
…全国のほとんどの大名がまき込まれたこの合戦に勝ったことで,家康は事実上全国の支配者となり,さらに3年後に征夷大将軍となったので,〈天下分け目の戦〉ともいわれる。
[原因]
1598年8月の豊臣秀吉死後の政権は,家康を筆頭とする五大老と三成を筆頭とする五奉行によって運営されることとなった。秀吉の遺言によれば,家康,前田利家,毛利輝元,上杉景勝,宇喜多秀家の五大老が秀頼を後見し,〈御法度,御置目〉などの天下の政治は長束正家,石田三成,増田長盛,浅野長政,前田玄以の五奉行が合議によって推進し,太閤蔵入地その他の中央政権を支える財政の〈算用〉は,家康,利家の2人が総攬することになっていた。…
…1596年内大臣。このころから98年8月の秀吉の死の直前の間に設置されたと考えられる五大老の筆頭となり,秀吉の死後はその喪を秘したまま,朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮した。翌年閏3月五大老の一人前田利家の死後,秀吉の築いた伏見城本丸に入り,〈天下殿になられ候〉(《多聞院日記》)と評されるにいたった。…
…秀吉の信頼はとくにあつく,86年筑前守の受領を許され,87年の九州征伐では京都・大坂の守護,90年の小田原征伐には北関東から進撃して奥羽征伐にも従い,92年(文禄1)の文禄の役では名護屋に駐留して徳川家康とともに秀吉の朝鮮渡海を諫止,93年秀頼誕生の後には傅(もり)役に任ぜられ,96年(慶長1)秀吉・秀頼父子の参内に供奉して従二位権大納言に叙任され,豊臣氏に対し重大な責務を負うこととなった。このころ秀吉は前田邸に臨み,また利長は98年従三位権中納言に叙任,秀頼擁護の態勢が固められ,利家は五大老の一員となった。同年秀吉が没すると利家は秀頼とともに大坂城に入って後見し,家康と比肩しうる重鎮として五大老,五奉行の間で重視された。…
※「五大老」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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