古文には広狭二義がある。広義の古文は小篆以前の文字を一括して古文という。たとえば〈説文解字叙〉の郡国の山川より出た鼎彝(ていい)の銘など。狭義の古文は,秦以前において,経書に書いた文字をいう。〈説文解字叙〉の王莽(おうもう)の六書で古文壁中の書(孔子の子孫の邸中の壁から出現した竹簡類の文献)といわれるものである。壁中の書とは,魯の恭王が孔子の宅をこぼったときに得た《礼記(らいき)》《尚書》《春秋》《論語》《孝経》と北平侯張蒼が朝廷に献じた《春秋左氏伝》をいい,孔子が六経を記し,左丘明が春秋伝を記すのにいずれも古文を用いたとある。《説文解字》の説解には510の古文がのせられているが,おそらくこの古文経の字であろうと思う。それでは,この古文はいつごろの書体であるかというに,秦の始皇帝の焚書坑儒が前213年のことであるから,それ以前ということになる。王国維は古文を六国の書と説くが,籀文(ちゆうぶん)を秦通用文字,古文を六国通用文字と考えてもいいのではないかと思われる。
執筆者:辻本 春彦 また漢代の今文(当時通行の字体である隷書)で書写された経書と,それをテキストとして扱う学官(博士官)系の学問に対して,それに照応する先秦以来の古い字体によるテキストを比較研究する訓詁・校定に秀でた古学とを,のち今文・古文と対称させることがある。この場合,前漢武帝期のいわゆる孔壁の古書や同時期の河間献王の集めた前代の文字によるテキスト研究を開端におくが,実は古学とは前漢末,王莽期の劉歆(りゆうきん)らとその系統をひく学派が復古的な形態に託した新学説をさし,後漢期を通じて,学官系の経学との折衷が試みられた。その総合解釈は,鄭玄(じようげん)や王粛らによって護教的な学官から独立した側によって,漢・魏の交に実現している。
唐代中期以後,韓愈,柳宗元らが推進した古文運動のなかで,六朝に発達した駢文(べんぶん)のもつ桎梏としての文体を克服しようとして,前漢以前の自由で雄勁な文章(たとえば《史記》《漢書》)にその範を求め,新たに確立した文体をまた〈古文〉という。宋代の欧陽修,蘇軾(そしよく)などに継承され,20世紀の文学革命に至るまで,中国の散文の支配的文体としてあった。
執筆者:戸川 芳郎
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古文には古い字体の文字、古い文体の文章、古い時代の文章の意味がある。中国では一般には散文の一体をさし、唐初に提唱され、中唐の韓愈(かんゆ)、柳宗元(りゅうそうげん)によって成功した文章をいう。六朝(りくちょう)に発達した駢儷文(べんれいぶん)(駢文)に対する名称で、漢以前の文体を目標に独自のスタイルを打ち出したもので、宋(そう)、明(みん)、清(しん)、それぞれの時代の古文がある。駢儷文は、対句の使用、典故の利用に重点を置き、声韻(せいいん)の配合にも力を注いだ結果として、内容が空疎、浮薄になった。その弊害を打破するために、漢以前の文章に復古したのが古文である。唐初の歴史家が六朝の史書を編纂(へんさん)するとき、歴史の文章に反省を加えた結果、姚思廉(ようしれん)、房玄齢(ぼうげんれい)、魏徴(ぎちょう)、李百薬(りひゃくやく)、令狐徳棻(れいことくふん)らが、礼楽を根底に、古今を通じて美悪を述べることを主張し、劉知幾(りゅうちき)が実録をモットーとして、簡要で含蓄のある文章で一家の言を述べることを主張した。
文人では元徳秀を中心に元結(げんけつ)、蕭穎之(しょうえいし)、李華(りか)らによって、六経(りくけい)の理想を作者が体得して文章に表すことが唱えられた。韓愈の「載道(さいどう)の古文」はそれを継承している。異端(仏教、道教)を排して儒教の道統を継ぐのが韓愈の理想であった。韓、柳および宋の欧陽修(おうようしゅう)、蘇洵(そじゅん)、蘇軾(そしょく)、蘇轍(そてつ)、王安石、曽鞏(そうきょう)を「唐宋八大家」という。
[横田輝俊]
『佐藤一郎著「古文」(鈴木修次他編『中国文化叢書4 文学概論』所収・1967・大修館書店)』
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…世にいう今文(きんぶん)学である。この,当時通行の隷書(れいしよ)つまり今文で書写されたテキストを用いた博士官とは別に,古文すなわち戦国期の篆書(てんしよ)や籀文(ちゆうぶん)などのテキストを使用する学術も,前漢末に起こった。いわゆる〈古学〉であって,〈経伝〉の訓詁解釈にすぐれ,各経書の今古文にわたる比較研究を促し,漢・魏期の〈注〉釈(故訓,校注)を残している。…
…それでは六朝以降今日まで,散文の名称が定着していたかといえばそうではない。中唐における韓愈,柳宗元の古文運動では,復古のスローガンを掲げて文体改革が実現した。2人は彼らの書く新散文を古文という名で呼んだ。…
…ただ,このときいったん滅びた文字も,ひそかに壁に塗りこめられたりして難を逃れたものが,前漢の武帝(在位,前140‐前87)のころから再び世にあらわれた。これは東方の諸国で用いられたもので,古文と称されて現在まで伝わっている。
[書体分類の沿革]
(1)漢魏六朝 書体の分類が中国で最初に試みられるのは後漢時代で,80年ころ成立の《漢書》芸文志で,古文,奇字,篆書,隷書,繆篆(びゆうてん),虫書の六体をあげる。…
…配列の順序は〈一〉の次は〈二〉,その次は〈示〉というように,字形上の連鎖感を配慮しながら,また十二支所属の文字が最後にまとめて置かれるなど,当時中国で普通に人のいだいていた宇宙構成に関する思考をも重ね合わせて決められたものである。当時最も公式の字体であった〈小篆(しようてん)〉を親字に,最古の字体で小篆などの祖であると信ぜられていた〈古文〉,それにおくれ,やや変改を受けたものとされていた〈大篆〉すなわち〈籀文(ちゆうぶん)〉,以上2種類の字体が,親字である小篆の字体と異なるときには〈重文〉すなわち重複の文字として付録した。親字の小篆の数9353字,重文は1163字。…
… 宋代には文体も一変した。貴族文化の象徴ともいうべき駢儷体(べんれいたい)の文章をやめて,それ以前の古文にかえれとする運動は,唐の韓愈,柳宗元らに始まったが,なかなか普及しなかった。ところが欧陽修が古文復興を唱道すると,大きな反響をよび,形式にこだわらず達意の文章を書くことが一躍盛んになり,彼の門下からは王安石,曾鞏(そうきよう),蘇軾(そしよく)兄弟らの名文家が輩出し,以後清代まで,古文は文体の主流を占めることになった。…
…
【隋唐宋元時代(6~14世紀)】
短命の統一王朝,隋のあとをうけた唐の大帝国,その滅亡のあと五代50年間の混乱期を経て建てられた宋の帝国,合わせて約700年。この時期の特色は古典詩の形式が完全に定まったこと,新しい散文(〈古文〉とよばれる)が四六文の地位を奪ったこと(古文運動),俗語文学が起こったことなどである。
[唐詩の極盛]
詩の韻律については,沈約らの説を継承し,さらに細かい分析が進められた。…
※「古文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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