中国古代、前漢末の学者。字(あざな)は子政(しせい)、名は更生(こうせい)。漢の高祖の異母弟である劉交(?―前179、楚元(そげん)王)の4世の孫。若くから才能を現し、宣帝(在位前74~前49)に起用されて諫大夫(かんたいふ)となり数十篇(ぺん)の賦頌(ふしょう)を献上する。神仙方術にも関心が強く、黄金の鋳造を進言して失敗し下獄するが、父兄の運動で死を免れる。のちふたたび宣帝に用いられ、石渠閣(せっきょかく)における五経同異の論争に穀梁(こくりょう)春秋派の一員として登用される。すでに当時を代表する学者であった。次の元帝・成帝期、向は劉氏の族長としての宗正の地位にあって、外戚(がいせき)や宦官(かんがん)の横暴を抑えるため懸命に活躍する。成帝のとき、名を向に改める。このころ、外戚の横暴を牽制(けんせい)し、天子の鑑戒(かんかい)ともなるよう上古から秦(しん)漢に至る符瑞(ふずい)災異の記録を集成して『洪範(こうはん)五行伝論』11篇を著して上奏する。また編著書に『説苑(ぜいえん)』『新序』『列女伝』『戦国策』および宮中の図書を整理する際に撰述(せんじゅつ)した『別録』などがある。向の子である歆(きん)はこれによって『七略』を撰(せん)し、これはやがて『漢書(かんじょ)』芸文志(げいもんし)にほぼそのままの形で収載されて今日に伝わっている。『漢書』に伝記がある。
[町田三郎 2016年1月19日]
『板野長八「災異説より見た劉向と劉歆」(『東方学会25周年記念論集』所収・1972・東方学会)』▽『町田三郎「劉向覚書」(『日中学会報 28』所収・1976・日本中国学会)』▽『銭穆「劉向・歆父子年譜」(『燕京学報 7』所収・1929・燕京大学)』
中国,前漢の学者。本名は更生(成帝即位の年,前32年に向と改名),字は子政。沛(はい)(江蘇省沛県)の人。漢高祖の同父弟である楚元王交の子孫。12歳で任子により郎官となり諫大夫に任用される。宣帝が学者をブレーンとして集めたとき,彼もそこに加わる。春秋学の中の春秋穀梁学を修め,また宮中の図書館(石渠閣)で五経を講じた。郎中から給事中,光禄大夫,中塁校尉と官職を歴任するが,特に元帝期には蕭望之,同堪らとともに国政を指導,元帝期の宦者(かんじや)石顕,成帝期の外戚王氏らの横暴に反対し,ためにしばしば投獄免官される。春秋学を修めたことから歴代の災異の解釈に通じ,同時代に起こった災異を外戚宦官の専権が原因と解し,それらの災異に関する解釈論が《洪範五行伝論》としてまとめられた。劉向は別に前26年より宮中の図書を校勘して分類目録《別録》をつくり,その事業は子の劉歆に引きつがれ《七略》として結実する。他に劉向の著作として《列女伝》《新序》《説苑》などが伝わる。
→四部分類
執筆者:冨谷 至
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…中国,前漢の成帝のとき,数名の学者の協力をえて宮廷の秘府の蔵書の校定に従事した劉向(りゆうきよう)が,ひとつの書物ごとに篇目を個条書きにし内容をつまんで作った解題。劉向の子の劉歆(りゆうきん)はそれを《七略》とよぶ図書目録にまとめた。…
…各伝の終りに《詩経》が引用され,君子の評語がついたりして,教訓的な説話集の形をとるが,たとえば夫が官位につくのを願わぬ接輿(せつよ)の妻の伝が収められたりして,儒家的な価値観のみでまとめられた書物ではない。編者は前漢の劉向(りゆうきよう)とされるが,それを疑う説もある。少なくとも現行本が劉向の原本そのままでないことは確かである。…
※「劉向」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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