今文経学ともいう。中国,経書研究の一学派。古文学に対する語。経書は,先秦時代にはもと儒家の学団の教科書として伝承されていたが,前漢の武帝が,他の百家をしりぞけて儒学を国教とし,五経博士を設けて以来,国家的権威をもつものとなり,経学は官学の地位を得て,漢王朝の正当性に学問的根拠を与えるものとなった。当時の経書は,秦の始皇帝の焚書(ふんしよ)を経て学者たちの暗誦によって伝えられ,漢代の初めになり,はじめて今文すなわち当時通行の隷書で竹帛(ちくはく)に書きつけられたものである。
それには伏生から欧陽生に伝えられた《尚書》,后倉の《礼》(《儀礼(ぎらい)》),楊何の《易》,轅固生の《斉詩》,董仲舒の《公羊伝》があり,この五経が博士官により伝授された。ところが前漢の終りごろ,王莽(おうもう)が政治の実権をにぎると,有力な学者であった劉歆(りゆうきん)が宮中図書の整理中に発見したと称する古文(先秦時代の古体文字)の《左氏伝》を大いに推重し,さらに哀帝のとき,それまで民間で伝授されていた《毛詩》《逸礼》《古文尚書》《費氏易》などの古文経書を博士官の教科書に採用するよう奏請したので,時の五経博士とのあいだに今文経と古文経との優劣の争論が生ずることになった。その結果,劉歆の主張はしりぞけられたが,やがて王莽が新王朝を建てると古文経書が採用され,後漢時代の今文経復活を経た後,しだいに古文経が浸透する契機となった。すなわち,古文経の訓詁学的研究が進むにともない古文派が勢力を増し,章帝の建初4年(79)の白虎観論議では今文派が勝利したものの,実質的には古文派に妥協し,やがて服虔(ふつけん),馬融らの精密な研究を経て,ついに鄭玄(じようげん)に至り,古文経説を主として今文経説を折中した経書解釈が行われた。これは今文学者,何休とのあいだに議論を生じたものの,大勢としては鄭玄の経説は後世の学界の模範となり,以後長いあいだ今文学は鳴りをしずめた。
ところが清代の中ごろ,内憂外患のために清朝の政治体制が動揺しはじめると,現実に目をそむけていた考証学的学風に飽き足らず,通経致用,すなわち経学を政治の実際に用いようとする学者が常州(江蘇省)を中心に現れた。まず荘存与(1719-88)が《春秋正辞》で孔子の〈微言大義〉を求め,ついで劉逢禄が《公羊何氏釈例》で何休の張三世説(衰乱,升平,太平という歴史発展説)を彰揚し,《左氏春秋考証》で,《春秋左氏伝》は劉歆の偽作だと論じた。さらに龔自珍(きようじちん),魏源は通経致用を鼓吹して今文学を政治変革の理論とした。
最後に清代今文学を集大成したのは,康有為である。彼はまず劉逢禄や廖平(りようへい)(1852-1932)の説を継承発展させて《新学偽経考》を著し,古文経書はすべて劉歆の偽作であり,孔子の〈微言大義〉は今文経にこそ記されていると論じ,ついで《孔子改制考》で,孔子を孔子教の開祖だとし,さらに《大同書》では,《礼記(らいき)》礼運篇の大同小康説と何休の張三世説とを結びつけた大同世界(ユートピア)への三段階歴史発展説を説いた。彼は,この説にもとづいて,立憲君主政体をめざす変法運動を進めて失敗に終わったが,彼の学問的成果の方は,現代でもなお意義を失っていない。
執筆者:坂出 祥伸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… かくて一,二の専門の経書をマスターして師承を重んずる学官は,両漢期を通じて当用の政芸・政術を争い,休祥災異,神仙思想に図讖(としん)(予言説),緯書を採入して,それぞれの経説を展開した。世にいう今文(きんぶん)学である。この,当時通行の隷書(れいしよ)つまり今文で書写されたテキストを用いた博士官とは別に,古文すなわち戦国期の篆書(てんしよ)や籀文(ちゆうぶん)などのテキストを使用する学術も,前漢末に起こった。…
※「今文学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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