日本歴史地名大系 「加茂市」の解説 加茂市かもし 面積:一三三・一三平方キロ県のほぼ中央部に位置する。東は粟(あわ)ヶ岳(一二九二・七メートル)・堂(どう)ノ窪(くぼ)山(一〇八七・七メートル)・権(ごん)ノ神(かみ)岳(一一二二・四メートル)・白(はく)山(一〇一二・四メートル)・宝蔵(ほうぞう)山(八九七・一メートル)などの越後山脈によって限られる。西は信濃川の氾濫原に延びるが、市域のほとんどはその間にある新津(にいつ)・村松(むらまつ)丘陵に属する。集落は、粟ヶ岳に発し中央部を北西流して信濃川に注ぐ加茂川と、その支流沿いに立地。加茂川の南をほぼ並行して下条(げじよう)川が流れ、信濃川に注ぐ。東は中蒲原(なかかんばら)郡村松町、西は三条市・白根(しろね)市、南は南蒲原郡下田(しただ)村、北は同郡田上(たがみ)町に境し、東西約二五キロ、南北八・五キロ。加茂の名は文和四年(一三五五)の羽黒義成軍忠状(三浦和田羽黒氏文書)に「青海庄賀茂口」とみえる。〔原始〕加茂川水系に沿って縄文期の遺跡がみられる。上流大俣(おおまた)川右岸の水源池(すいげんち)遺跡(中期)、加茂川右岸の弥次郎(やじろう)遺跡(中・後期)、牛(うし)ヶ沢(さわ)遺跡(中期)、支流高柳(たかやなぎ)川上流の金平(かなびら)遺跡(中期)、黒水薬師(くろみずやくし)山西の台地上に岩野原(いわのはら)遺跡(中・後期)、上土倉(かみつちくら)の松(まつ)ヶ沢(さわ)遺跡(中期)、下流には青粘土層下から発見された加茂市役所遺跡(中・後期)や青海神社(おうみじんじや)遺跡(後期)などがある。弥生期の遺跡は確認されていない。古墳時代の千刈(せんがり)遺跡があり、加茂川に注ぐ千刈川の河床下から多数の土師器が発見された。〔古代・中世〕「延喜式」神名帳記載の蒲原郡一三座のうち、青海神社と長瀬(ながせ)神社が市内の神社に比定される。青海神社は青海首によって創建されたとも伝え、「和名抄」にみえる蒲原(かむはら)郡五郷の一つ「青海郷」を当市付近に比定する説もある。青海神社は賀茂神社と賀茂御祖(かもみおや)神社を合祀するが、両社は桓武天皇のとき山城の賀茂社から勧請したものと伝える。寛治四年(一〇九〇)山城賀茂上下二社に寄進された神領のうちに越後国石河(いしかわ)庄があり、市内石川(いしかわ)をその遺称とする説もある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加茂市」の意味・わかりやすい解説 加茂〔市〕かも 新潟県中部,新潟平野の南東部にある市。 1954年市制。同年下条,七谷の2村,55年須田村を編入。中心市街地の加茂は信濃川の支流加茂川の谷口集落で,万治年間 (1658~61) から市場町として繁栄。現在も 1000軒以上の出店でにぎわう定期市が続いている。上流七谷地方の加茂紙を加工した渋紙,全国的に名高い桐だんす,建具の木工,加茂縞の織物など古くからの産業のほか,繊維,電気器具,食料品,電子産業などが行われ,複合産業が集積している。青海神社,加茂山公園があり,園内のユキツバキの群生は有名。信濃川河岸ではナシ,ブドウを産する。市域東部にある粟ヶ岳周辺は奥早出粟守門県立自然公園に属する。 JR信越本線,国道 290号線,403号線が通る。面積 133.72km2。人口 2万5441(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報