須田村
すだむら
[現在地名]久美浜町字須田
川上谷の西側山麓に集落をつくり、北は新庄村、南は金谷村に接する。西の大阪峠を越えて但馬国に通じる。
集落の北側に広がる伯耆谷には須田遺跡があり、弥生後期の土器類が出土する。またこの谷には古墳が群をなしている。須田を中心にして川東の芦原村・新谷村付近は熊野郡内で最も古墳の多い所で、古代の一中心地であったと考えられる。
慶長検地郷村帳に高五二二・三八石「須田村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で五九八石余となった(天和元年宮津領村高帳)。
須田村
すたむら
[現在地名]高岡市醍醐
後正寺村の西に位置し、庄川の支流西新又川が西部を北流する。北は壱歩弐歩村(現福岡町)、西は小伊勢領村(現同上)。古くは山伏の守護神気比神社の鈴などを保管する蔵があったので「鈴田」と称したという(戸出町史)。元和五年(一六一九)の家高新帳では中保村組に属して「す田村」とみえ、役家数一〇。正保郷帳では横越村と併記される深田村にあたるとみられる。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二七九石・免四ツ五歩、小物成は野役四匁(三箇国高物成帳)。
須田村
すだむら
岩川村の東に位置し、一宮川が流れる。茂原に至る道が通る。中世には墨田保とみえるが、江戸時代にも墨田とする例がある。天正一九年(一五九一)八月五日の上総国長南郡須田村検地帳(小川家文書)は一筆の記載形式が耕地の縦横の間数・地字名・品等・反別・取米・作人となっており、田畠一二町九反余、ほかに田畠八反余。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に須田村とみえ、高三四〇石。寛永二年(一六二五)の知行宛行状にみえる埴生郡次田村は当村と考えられ、村内一〇石余が旗本山下領。同一九年須田村内一〇石余が旗本岡部領となり、のち三九石余の新田開発があった(文化一二年「岡部氏知行所村々覚」大森家文書)。
須田村
すだむら
[現在地名]能代市須田
大間越街道沿いにあり、東は東雲台地、南は落合村、西は日本海。村の西部に田地が開ける。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「弐百七拾四石九斗三升六合 すた村 たかう村」とある。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に鑓衆が四人記される。
日本海に面した地に草飼地があり、そのほかは常盤山・国見山・石川山・朴瀬村にあった。石川山への入会は、享保一八年(一七三三)から盆草のみの入会となり、鎌九丁、役銭三六〇文を石川村に支払うことになった(「石川村久喜沢村山願被仰渡御書付之写」見上家文書)。
須田村
すだむら
[現在地名]高岡市須田
二上山麓の西方、守山町の西に位置。氷見道が通る。正保郷帳では高一五四石余、田方八町六反・畑方一町七反余。川崩れにより明暦二年(一六五六)五七石、寛文四年(一六六四)二〇石ほどが検地引高となった(「高免等書上帳」折橋家文書)。同一〇年の村御印の草高八四石・免五ツ九歩、小物成は山役二匁(三箇国高物成帳)。さらに同年一二石、延宝元年(一六七三)一〇石が検地引高となったが、同六年二四石の新開、翌七年四〇石余の畑直しが行われた(高免等書上帳)。
須田村
すだむら
[現在地名]足助町竜岡
足助川の支流菅生川に沿い、東は足原村、南は桑田和村、西は菅生村、北は上垣内村に接する。伊那街道が通り、集落は谷地形の急傾斜地に点在。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。同一五年成瀬家は後嗣なく断絶。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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