加藤完治(読み)かとうかんじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「加藤完治」の意味・わかりやすい解説

加藤完治
かとうかんじ
(1884―1967)

農本主義者で農民教育および満州開拓移民の指導者。東京生まれ。1911年(明治44)東京帝国大学農学部卒業。内務省地方局勤務ののち、1913年(大正2)愛知県安城農林学校教師。1915年創設された山形県自治講習所の初代校長に就任し、筧克彦(かけいかつひこ)流の古神道理論に基づき農民子弟の教育にあたった。ついで1926年茨城県友部(笠間(かさま)市)に農村中心人物の養成指導を目的とする日本国民高等学校が創立されると、その校長となった。満州事変後は関東軍の東宮鉄男(とうみやかねお)大尉と結び満州移民を推進した。1938年(昭和13)満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍制度が発足し茨城県内原(うちはら)(水戸(みと)市)に中央訓練所が設立されると、その所長をも務めた。戦後は公職追放処分を受けるが、解除後、私塾的な日本高等国民学校の校長に復職、また旧満州開拓関係団体の役員を務めた。

[北河賢三]

『加藤完治全集刊行委員会編・刊『加藤完治全集 第一巻』(1967)』『上笙一郎著『満蒙開拓青少年義勇軍』(1973・中公新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「加藤完治」の意味・わかりやすい解説

加藤完治 (かとうかんじ)
生没年:1884-1967(明治17-昭和42)

農民指導者。旧平戸藩士の長男で東京市生れ。東大工学部に入学したが,のち農学部に編入。1911年卒業後帝国農会や内務省に勤め,人生問題に悩んで農民と生きる決意をし,農本主義者山崎延吉が校長であった愛知県立安城農林学校に赴任。15年山形県立自治講習所の初代所長に転じ,独自の教育方法で中堅人物を養成した。欧米に出張の後,石黒忠篤らのすすめで26年茨城県友部町に日本国民高等学校を創立,校長となり,超国家主義者筧克彦の古神道による農本主義思想を教育した。満州事変勃発後の32年からは中国侵略に伴う満蒙開拓の移民に力を注ぎ,38年満蒙開拓青少年義勇軍発足とともにその中央訓練所(同県東茨城郡内原町)の所長を兼ね,約22万人を派遣した。戦後は追放解除後,46年に福島県に入植,白河報徳開拓農協組合長となり,辞職後日本高等国民学校(日本国民高等学校を改称)の校長に復帰した。農本主義の権化といわれ,《日本農村教育》(1934)などの著書がある。
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百科事典マイペディア 「加藤完治」の意味・わかりやすい解説

加藤完治【かとうかんじ】

戦前の代表的な農本主義指導者。東京生れ。東大農学部卒後,内務省を経て,農本主義者山崎延吉が校長を務める愛知県立安城農村学校に赴任。1915年以後山形県自治講習所長として独特な農村幹部教育を始めた。自ら茨城県友部町(現・笠間市)に創立した日本国民高等学校校長,満州事変勃発後の1932年からは,満蒙開拓の移民に力を注ぎ,満蒙開拓青少年義勇軍訓練所長などを歴任。第1次大戦後の農村対策と第2次大戦期の満蒙開拓の枢要なイデオローグとして活躍した。戦後は追放解除後,1946年に福島県の開拓村に入植,白河報徳開拓農協組合長となり,辞職後日本高等国民学校(日本国民高等学校を改称)の校長に復帰。著書に《日本農村教育》(1934年)など。→内原(うちはら)訓練所
→関連項目農本主義

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤完治」の解説

加藤完治 かとう-かんじ

1884-1967 大正-昭和時代の農本主義者,教育者。
明治17年1月22日生まれ。大正15年日本国民高等学校を創設。筧克彦(かけい-かつひこ)の古神道理論にもとづく独特の農本主義で農民の子弟を教育した。満州事変後は満州移民を推進,満蒙開拓青少年義勇軍中央訓練所所長となる。昭和28年日本高等国民学校(戦後に改称)校長に復職。昭和42年3月30日死去。83歳。東京出身。東京帝大卒。

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