農業こそが社会、あるいは国の本であるという思想、およびこの農本思想に基づく政治上の主義、主張。元来は、封建社会の矛盾を反映して出現したもので、領主の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)や、天災地変による飢饉(ききん)の惨状などの見聞を動機として考え出されたものが多い。江戸時代の思想家安藤昌益(しょうえき)、佐藤信淵(のぶひろ)、二宮尊徳などの思想や主張は、農民の窮乏をどう救済するかという発想から発展したものである。
明治維新以後、天皇制政府は、農業と農村を重視するかのような農本主義的思想をしばしば振りまいたが、寄生地主制など農村の封建的要素を取り除かず、これを天皇制の一つの経済的基礎として資本主義を発展させた。この半封建的土地所有制下の農村は、低賃金労働者と兵士の豊かな供給源となり、農民は収奪に苦しみ窮乏を続けた。とくに1927年(昭和2)から繰り返された大恐慌は、農村に壊滅的打撃を与え、なかでも東北、北海道などの寒冷地帯では、飢え死に、凍死、自殺、一家心中などの地獄絵が現出した。
こうした状況も反映して、昭和初期には、いわゆる昭和維新、国家改造運動と結び付いた農本主義が現れた。権藤成卿(ごんどうせいけい)、橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)によって唱えられた農本自治主義である。権藤が1932年の血盟団事件に連座し、橘が同年の五・一五事件に7名の「農民決死隊」を率いて参加、無期懲役の刑に処せられたことから農本自治主義は一躍注目を浴びた。現代史のうえで農本主義とは、この農本自治主義をさすことが多い。農本自治主義は、権藤成卿の『自治民範』『農村自救論』、橘孝三郎の『日本愛国革新本義』『皇道国家農本建国論』などの著書のなかで展開されている。権藤のそれは、彼の「制度学」と結び付いた特異なもので、大化改新によって実現したとする「公民自制自治」を理想とし、資本主義の中央集権を排し、政治組織は農村を中心とする自治制にすることを主張している。国家主義を論難し、「我日本を賊する匪類(ひるい)、同胞庶民の仇敵(きゅうてき)」とまでいっている。橘のそれは、農村自治を主張する点では同じであるが、権藤ほど復古的、反資本主義的ではなく、また、ある程度機械工業や経済を統制する国家権力の存在を認めている。昭和初期の農村の危機、農民の極度の貧窮化の状況のもとで、農村自治主義が一定の影響を与えたことは否めない。ただ、これを日本ファシズム運動の支柱とまで評価する説もあるが、国家改造運動の主流をなした北一輝(きたいっき)、大川周明(しゅうめい)その他の思想には農本自治主義がまったくみられないことや、右翼運動の実態を事実に即してみれば、そのような評価は認めがたい。
[大野達三]
『山本彦助「国家主義団体の理論と政策」(『思想研究資料特輯』第84号所収・1941・司法省刑事局)』▽『木下半治著『日本右翼の研究』(1977・現代評論社)』
立国の基礎を農業におくことを主張する思想と運動。本来,農本思想は農業生産が基本であった封建社会の支配的イデオロギーとして存在するものである。農本主義が特有のイデオロギーとして成立するのは封建社会末期の商業資本,小商品経済の成長により体制そのものが動揺しはじめる時点である。中国には古くから〈農〉を重んずる思想はあったが,日本では〈本を重んじ末を押ると言ふこと是古聖人の法也。本とは農也,末とは工商也〉(《政談》)という荻生徂徠に始まり,山片蟠桃,安藤昌益,二宮尊徳らがそれを担った。これらの思想は封建制下の農民に対する搾取と支配を合理化する体制的イデオロギーとして機能したが,それは同時に,この思想を徹底することによって寄生的な商工業批判と直接生産者への体制批判へと突き抜けていく意味をももっていた。近代の日本では資本主義が農村の半封建制(地主-小作関係)と結びついて発展しながら,同時に資本主義的商工業が農村の矛盾を拡大していくため,農本主義が繰り返しあらわれることになった。農村の危機は体制の危機に転化するため,農民の支配と搾取を合理化し,農民の体制的統合を図るため農本主義が不断に再生されてきた。以下に近代の農本主義を段階的に追ってみる。
(1)前田正名,品川弥二郎,平田東助,谷干城ら明治期官僚の主張する天皇制国家の社会的基盤維持論としての官僚的農本主義である。〈夫れ全国人口中最も多数を占める中産以下人民の生計此の如く困迫せり。国の生産力は減ぜざるを得ず。国家の元気は衰へざるを得ざるなり〉(平田・杉山孝平《信用組合論》)というように,自作農中堅,耕作地主層の動揺を治めて,国家の社会的基盤の安定化を図ろうとした。
(2)横井時敬,岡田温,山崎延吉のような学者,帝国農会指導者の主張する地主-小作関係の安定を図るための小農保護論たる地主的農本主義。〈農業は尊いものである,偉大なものであると云ふ考えを起すやうにしてやつたならば始めて小作人が逃げて行かぬやうになる〉(横井《農事振興集》)というように地主制の安定化を図ろうとした。
(3)権藤成卿,橘孝三郎のような在野の右翼運動家の主張する小生産者-中農層の危機に対応した超国家主義的農本主義。〈是の不安危惧の深きは農村である。我国における農村は国の基礎であり,成俗の根源である〉(権藤《農村自救論》)というように,昭和恐慌に動揺する農民を反都市的,中央集権的,反資本主義的デマゴギーによりファシズム運動に引き込み,満州移民=植民地侵略への動員をはかった。
これらの三つは寄生地主制により農村を構造的に再編成した近代天皇制国家の形成,展開,没落の各段階に照応する。すなわち,明治維新以降,資本制生産が支配的地位を占めるなかで,農本主義はいくつかの変種を含みながらも基本的には資本家,地主,軍部の利害に従属する反動的イデオロギーとして機能してきたといえる。
執筆者:森 武麿
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