北条実時(読み)ホウジョウサネトキ

デジタル大辞泉 「北条実時」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐さねとき〔ホウデウ‐〕【北条実時】

[1224~1276]鎌倉中期の武将義時の孫。引付衆評定衆を歴任して、執権補佐学問を好み、書籍を書写・収集して、晩年に建てた武蔵国金沢の称名寺保管蔵書子孫によって一層拡充され、金沢文庫となった。金沢実時。称名寺殿。

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精選版 日本国語大辞典 「北条実時」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐さねとき【北条実時】

鎌倉中期の武将。実泰の子。小侍所別当・引付衆・評定衆を歴任し、執権を補佐した。書物の収集に励み武蔵六浦荘金沢に設けた文庫が後、金沢文庫に発展した。また、称名寺を創建。金沢実時、称名寺殿とも。元仁元~建治二年(一二二四‐七六

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朝日日本歴史人物事典 「北条実時」の解説

北条実時

没年:建治2.10.23(1276.11.30)
生年:元仁1(1224)
鎌倉中期の武将。実泰の嫡子。母は天野政景の娘,妻は政村の娘,淵名氏の娘など。鎌倉の邸宅は源頼朝の法華堂の前。天福2(1234)年に実泰から小侍所別当を継承し,将軍藤原頼経と共に上洛し宣陽院蔵人を拝した。建長4(1252)年に引付衆,同5年に評定衆。文永1(1264)年に新設の越訴奉行。鎌倉の東の外港を擁する六浦荘金沢郷に居館と称名寺を創建,「金沢称名寺殿」と呼ばれた。西大寺叡尊を鎌倉に呼び帰依し,称名寺に下野国薬師寺から審海を入寺させ律院とした。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の編纂者のひとりと目される。建治1(1275)年,六浦に隠居し金沢文庫を創設した。収集した書物は,清原教隆・俊隆や藤原茂範に学んだ「律」「令集解」「群書治要」や「源氏物語」などで,公家の学問を鎌倉に移植した点に特徴があった。政治面では時宗・政村・安達泰盛と寄合を構成し,文永3年の将軍宗尊親王更迭の主要人物であった。蒙古襲来後,鎮西に下向した息子・実政に与えた置文は,部下の統率などの要点を記し得宗周辺の人々の意識を知る上で貴重な家訓である。六浦荘の瀬戸入海築堤殺生禁断には,実時の白楽天の業績への理解や戒律の影響が鎌倉の都市計画に反映した姿を推察できる。「廉直人,財人,憲人」と評された。称名寺に墓塔の宝篋印塔とともに実時の画像が伝来している。<参考文献>関靖『金沢文庫の研究』,川添昭二「北条時宗の連署時代」(『金沢文庫研究』263号),安部隆一「北条実時の修学と精神」(『金沢文庫研究』147号)

(福島金治)

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条実時」の解説

北条実時
ほうじょうさねとき

1224〜76
鎌倉中期の武将
金沢 (かねさわ) 実時ともいう。北条義時の孫。引付衆・評定衆を歴任して執権経時 (つねとき) ・時頼を補佐した。武蔵六浦庄金沢郷(現横浜市金沢区)に住み,学問を好み多くの書籍を収集し金沢文庫を設けた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条実時」の解説

北条実時 ほうじょう-さねとき

金沢実時(かねざわ-さねとき)

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百科事典マイペディア 「北条実時」の意味・わかりやすい解説

北条実時【ほうじょうさねとき】

金沢(かねさわ)実時

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条実時」の解説

北条実時
ほうじょうさねとき

金沢実時(かねざわさねとき)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条実時」の意味・わかりやすい解説

北条実時
ほうじょうさねとき

金沢実時

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条実時」の意味・わかりやすい解説

北条実時
ほうじょうさねとき

金沢実時」のページをご覧ください。

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