通説では、北条実時が病のため幕府の要職を退いて金沢の別邸に籠居した建治元年(一二七五)前後に基礎を置くという。また称名寺に多くの寺領を寄せた実時の子顕時を記念し、乾元元年(一三〇二)前後に設けられた称名寺文庫が、後に金沢文庫に発展したとする説もある。実時は義時の子で泰時の弟にあたる実泰の嫡子、一一歳で将軍に近侍する小侍所別当に選ばれ、以後、引付衆・評定衆・引付頭人・越訴奉行と長く幕府の中枢の官職を歴任した。「吾妻鏡」仁治二年(一二四一)一一月二五日条は、執権泰時の亭内で好学の有力御家人たちの酒宴が開かれ、その席上、泰時が嫡孫の経時に対し、とくに学問を好んで武家の政道を助けるように、そして万事実時に相談するように諭したと記している。当時まだ一八歳の実時は、好学の若手政治家として注目される存在であった。建長四年(一二五二)引付衆在職以来京都の儒者清原教隆・俊隆、豊原豊重にも学び、熱心に内外の書籍を集めた。建治元年称名寺に引退後も死に至るまで政治・法制・農政・軍事・文学・仏教など広範囲にわたる書写や校合に励んだ。「文選集注」一三巻一九軸(金沢文庫保管)は実時が収集したもので、経書・史書の集成「群書治要」五〇巻の書写・校合は、その奥書によれば死の前年まで続けられた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鎌倉中期,金沢実時によって創設された文庫。武蔵国久良岐郡六浦(むつら)荘金沢郷(現,横浜市金沢区金沢町)の居館敷地内に設けられた。その時期は明白でなく,一応,実時が病をえて金沢の自邸に引きこもった1275年(建治1)ころとされている。金沢氏の居館跡は明らかでないが,現在の称名寺に隣接した西方の谷と考えられ,文庫はその後方の山際のあたりに独立の家屋として建てられた。後世この付近は御所ヶ谷と呼ばれ,文庫が設けられたと思われる東北側の小さな谷は文庫ヶ谷と称されている。ここからは鎌倉期の三鱗(みつうろこ)の文様のある古瓦が出土し,現在,神奈川県立社会教育会館が建っている。
実時は執権義時の孫で,11歳のときに小侍所別当となった。早くから政道と学問に対する関心が深かったとみえ,執権泰時は嗣子経時の師友として実時を選び,両人は水魚の交わりを結び,ともに政道に関する学問を励むようにといったという。1241年(仁治2)実時18歳のときであるが,このころから彼は鎌倉幕府に仕える儒家清原教隆に師事し,その勉学は政治・法制・農政・軍学・文学など広範囲の分野の書物に及んだ。それらは金沢文庫の基礎をなした書物の一部である。金沢文庫第2代当主の顕時は学問と信仰にあつく,彼の学んだ《春秋経伝集解》や仏書《伝心法要》が現存し,文庫はさらに蔵書を増したと思われる。第3代貞顕のとき金沢文庫は最も充実した。彼は1302年(乾元1)25歳のとき,六波羅探題(南方)として上洛したが,京都貴族と交わって公家文化の吸収につとめ,在京中の彼の書写校合・収書活動には目をみはらせるものがあった。それらの書物は10年(延慶3)再び六波羅探題(北方)として上洛する際に,金沢文庫に架蔵された。しかし再度の上洛以後と下向後の連署・執権時代,それに続く出家時代の24年間に及ぶ貞顕の書写・収書活動をしのばすものは見当たらない。これらの書物は,金沢文庫に納置される以前に元弘の乱に遭い,鎌倉の貞顕邸で焼失したとも考えられる。第4代貞将のときに鎌倉幕府は崩壊し,33年(元弘3)5月金沢氏は北条高時一族とともに滅亡した。
金沢氏による金沢文庫の経営はわずか58年間に過ぎなかったが,文庫の架蔵本が千字文によって分類されていたことから相当の量にのぼったと推測される。蔵書は北条一門の親族や称名寺の学僧たちに利用されたが,利用には厳しい規定があって普通いわれる公開図書館的な存在ではなく,むしろ金沢氏個人の文庫としての性格が強いものであった。金沢氏滅亡後の文庫の管理は氏寺の称名寺にゆだねられたが,大檀那を失って寺もだんだんと衰微し,蔵書は上杉憲実,北条氏康,豊臣秀次,江戸時代に入っては徳川家康,前田綱紀など時の権力者等によって持ちだされ,散逸ははなはだしかった。現在,旧金沢文庫本として判明し,国宝・重要文化財に指定されたものは54件380冊である。1897年伊藤博文の助力で称名寺境内に金沢文庫が再建されたが,関東大震災で破壊された。現在の神奈川県立金沢文庫は1930年大橋新太郎の寄付で図書館として復興し,称名寺ならびに金沢文庫に伝来した文化財を保管している。55年からは博物館として運営されている。
執筆者:前田 元重
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鎌倉中期、北条実時(ほうじょうさねとき)(金沢実時)によって創設された文庫。従来「かなざわ」といわれてきたが、正しくは「かねさわ」である。武蔵国(むさしのくに)久良岐(くらき)郡六浦庄(むつらしょう)金沢郷(かねさわごう)(横浜市金沢(かなざわ)区金沢町)の居館内に設けられた。創設時期は明確でないが、いちおう、実時が病を得て鎌倉の邸宅より金沢の居館に引きこもった1275年(建治1)ころとされている。居館は現在の称名寺(しょうみょうじ)を含み、東北西の三方を山に囲まれた、瀬戸(せと)の入り海を見下ろす南面する台地に築かれた。ここが史実に現れてくる「六浦別業(むつらのべつごう)」の地であろう。この南面する台地は東谷と西谷とに分かれ、東谷に称名寺の前身である持仏堂(じぶつどう)が建立され、西谷に金沢氏の住居などが構えられた。文庫は居館の後ろ山際に、独立の家屋として建てられたと推定されている。後世、この西谷のあたりは御所ヶ谷(ごしょがやつ)とよばれ、とくに文庫の設けられたと思われる北東隅の小さな谷は、文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)と称されてきた。ここからは鎌倉期の三鱗(みつうろこ)の文様のある古瓦(ふるがわら)が出土している。実時は執権義時(よしとき)の孫で、引付衆(ひきつけしゅう)、評定衆(ひょうじょうしゅう)など鎌倉幕府の要職を歴任したが、政道と学問に関心が深く、早くから儒家清原教隆(きよはらののりたか)に師事した。その学んだ和漢の書は、『群書治要(ぐんしょちよう)』『春秋経伝集解(しゅんじゅうけいでんしっかい)』『令義解(りょうのぎげ)』『源氏物語』などをはじめとして、政治、法制、農制、軍学、文学の広範囲の分野に及んだ。晩年これらの書物が鎌倉の邸宅から金沢の居館に移され、金沢文庫の基(もとい)が築かれた。文庫はその後、顕時(あきとき)、貞顕(さだあき)、貞将(さだまさ)と引き継がれたが、なかでも第15代執権となった貞顕の時代がもっともよく充実した。いま、当時の蔵書数を明らかにすることはむずかしいが、蔵書が千字文(せんじもん)によって分類されていたことからすると、相当の量に上ったことは疑いない。蔵書は北条氏一門、あるいは称名寺の学僧たちに利用されたが、その利用については厳しいものがあり、普通いわれているような公開図書館的な施設ではなかった。あくまでも金沢氏個人の文庫として考えたほうが妥当であろう。
1333年(元弘3・正慶2)鎌倉幕府の崩壊にあい、金沢氏は北条高時(たかとき)とともに滅んだ。以後、金沢文庫は氏寺(うじでら)称名寺によって管理されたが、寺側も大檀那(だいだんな)を失った関係上しだいに衰微し、文庫の蔵書はその時々の権力者によって持ち出された。なかでも徳川家康の移出は多量に上り、現在その文庫本は宮内庁書陵部、国立公文書館などに分蔵されている。現在の神奈川県立金沢文庫は1930年(昭和5)、県の昭和御大典記念事業の一環として、実業家大橋新太郎の寄付金を受けて図書館として復興され、称名寺ならびに金沢文庫に伝来された多数の文化財(鎌倉時代の古書、古文書、美術工芸品)が保管されることとなった。1955年(昭和30)からは博物館として運営され、中世歴史博物館として異彩を放っている。
[前田元重]
『関靖著『金沢文庫の研究』(1951・講談社)』▽『結城陸郎著『金沢文庫と足利学校』(1959・至文堂・日本歴史新書)』
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出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
北条(金沢)実時が武蔵国六浦(むつら)荘金沢村(現,横浜市金沢(かなざわ)区金沢町)の別業内にたてた文庫。北条義時の孫で鎌倉幕府の要人だった実時は,好学の士としても知られ,彼に始まる金沢氏は北条氏の有力庶家として鎌倉後期に繁栄,文庫も発展した。実時の孫で金沢氏で唯一執権に就任した貞顕のときが同氏および文庫の最盛期。幕府滅亡後は金沢氏の創建した称名寺が経営にあたったがしだいに衰退。現在は神奈川県立金沢文庫として再興。金沢貞顕書状をはじめ幕府関係文書を多数所蔵し,鎌倉幕府末期の政治史研究に欠かせない史料群である。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…武芸とくに騎射に優れたが,学問にも早くから関心をよせ,儒家清原教隆に師事して経史,律令を学び,これを政道に生かすことにつとめたが,勉学の範囲は政治,法制にとどまらず農政,軍学,文学の分野にも及んだ。その書写校合,収集したたくさんの和漢の書物は金沢に引退したおり鎌倉から移され,金沢文庫の基をつくった。また金沢の居館に隣接した東谷に阿弥陀堂を建立して父母の菩提を祈ったが,のち西大寺の叡尊に帰依して67年(文永4)これを律院称名寺と改め,発展させた。…
…1241年(仁治2)実時18歳のときであるが,このころから彼は鎌倉幕府に仕える儒家清原教隆に師事し,その勉学は政治・法制・農政・軍学・文学など広範囲の分野の書物に及んだ。それらは金沢文庫の基礎をなした書物の一部である。金沢文庫第2代当主の顕時は学問と信仰にあつく,彼の学んだ《春秋経伝集解》や仏書《伝心法要》が現存し,文庫はさらに蔵書を増したと思われる。…
… 現在,木造釈迦如来像(重要文化財)などの彫刻,北条実時像などの20点近い中世肖像画,十二神将像(重要文化財)などの多数の仏画,1万3000点を超える和漢の書,4000通余の古文書を所蔵する。そのほとんどは昭和の初めに境内に建てられた神奈川県立金沢文庫が保管している。中世の金沢文庫は,実時またはその子の顕時によって作られ,一種の図書館として,また〈武州金沢之学校〉などといわれて教育機関としても著名であった。…
…東洋に発達したもので,印材には玉,石,金属,骨,牙,貝殻,木,竹などが用いられた。日本の蔵書印で古いものは,正倉院御物にみる光明皇后(701‐760)の〈積善藤家〉〈内家私印〉などが知られ,また,横浜市の金沢称名寺の〈金沢(かねさわ)文庫〉という長方形の2種が著名である。蔵書印はだいたい蔵書家の姓か,雅号か姓名または文庫名を入れたものが多いが,ときには書物に対する希望や警句などを入れたものもある。…
…やがてわれわれはより便利な漢和字書《和名類聚抄(わみようるいじゆしよう)》をもつが,これも一種の類書であった。
[中世,近世]
下っては,金沢(かねさわ)文庫と足利学校が日本図書館史上重要である。金沢文庫は13世紀後半,金沢実時によって創設された文庫で,とりわけ3代貞顕の集書努力により大いに充実した。…
…わずかに平安時代末期から京都冷泉(れいぜい)家に伝わった1200件余,約1万点にのぼる古文書類が伝存され,冷泉家時雨亭文庫として公開されている。鎌倉時代に入ると文庫を持つことができるのは武士階級となり,とくに北条実時から3代を費やして収集された金沢文庫,足利氏の創建した足利学校の文庫などが著名である。室町時代には,明との交易により多数の漢籍が輸入され,とくに東福寺の普門院書庫,同じく海蔵院文庫などが充実していた。…
※「金沢文庫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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