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中国,明代に国の南北から受けた外民族による侵寇。北虜とは明を北方から侵略したモンゴル族のこと。南倭とは東南沿海を侵略した倭寇を指す。1449年(正統14),オイラート部のエセンが侵寇して土木の変を引き起こし,明は大きな打撃を受けた。それ以来北辺へのモンゴル族の侵入は絶えず,明は万里の長城を修築してこれに備えた。16世紀半ばにはタタール部のアルタン・ハーンがしきりに中国を侵略し,北京を数十日包囲したこともあった。ちょうどこのころ,明の東南沿海は倭寇の大侵寇を受けた。いわゆる後期倭寇である。その中心は中国の沿岸密貿易業者であるが,倭寇は一時ゆるんでいた密貿易の禁令がこのころ強化されてきたことに対する反抗であると同時に,自由な私貿易の公認を求める動きであり,これに日本の密貿易業者の加わったものであった。明朝はやがて私貿易公認に踏み切るが,この両者により明朝の国力は大きな打撃を受けた。
執筆者:谷口 規矩雄
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15世紀中葉以後,明朝が悩まされた南と北の外患をいう。北虜は北方のオイラト部やタタル(韃靼(だったん))部の侵入を,南倭は中国沿岸での倭寇(わこう)の略奪をさす。北では,1449年オイラト部エセンの軍に正統帝(英宗)が捕われたのをはじめ,16世紀にはタタル部ダヤン・ハーンやアルタン・ハーンの侵入に苦しんだ。南では,中国人を主とする後期倭寇の活動に苦しめられた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
中国、明(みん)代後半に南北から受けた外患。モンゴルのダヤン・ハンの子孫グンビリク・メルゲン・ジノン(オルドス部)、アルタン・ハン(トメット部)、クンドレン・ハン(ハラチン部)、トメン・ハン(チャハル部)らは1520年代から約50年間、東は遼東(りょうとう)から西は寧夏(ねいか)までの北辺を寇掠(こうりゃく)し、首都北京(ペキン)が包囲されたこともある。これが北虜である。また南倭とは、ほぼ同じ時期に揚子江(ようすこう)河口以南、福建、広東(カントン)の沿岸地方を寇掠した倭寇(わこう)をいう。しかしこのころのいわゆる後期倭寇の8~9割は中国人で、その性格は密貿易、武装商人的なものであった。北虜南倭に基づく軍事費の負担によって明の国力は消耗し、滅亡の一因となった。
[青木富太郎]
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