北袋村(読み)きたぶくろむら

日本歴史地名大系 「北袋村」の解説

北袋村
きたぶくろむら

[現在地名]大宮市北袋町

大宮宿・下天沼しもあまぬま村の南、しば川の谷と高沼こうぬま排水路の谷に挟まれて大宮台地が狭くくびれた部分に位置する。村の大部分は洪積台地面上にあり、北部を東から西へ高沼代用水が流れ、東側を見沼代用水(西縁)が南流する。田園簿によると田二三石余・畑三五石余、幕府領。元禄一〇年(一六九七)検地があり(風土記稿)元禄郷帳では高八三石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。高の増加は下木崎しもきざき道美木どうみき(現浦和市)にある飛地の開発による(大宮市史)。以降幕府領として幕末に至る(寛政八年「足立郡村々高辻帳」都築家文書、改革組合取調書など)。享保一六年(一七三一)・寛延二年(一七四九)持添新田の検地があった。


北袋村
きたぶくろむら

[現在地名]金沢市北袋町

東市瀬ひがしいちのせ村の南東、浅野川右岸に位置。正保郷帳では東市瀬村と並記され、高五四五石余、寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四一〇石、免六ツ一歩、小物成は山役五七九匁・蝋役一七匁・綿役九匁・漆役一七匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数二〇(高免付給人帳)。安政二年(一八五五)の高三〇七石、家数五〇(うち頭振一一)・人数二九〇(「高免家数人数等書上」亀田文書)。村領内の山地に御神造山城という古城跡があったという。一向一揆の土豪越中刀利とうり(現富山県福光町)の左衛門の居城といい、天正八年(一五八〇)織田信長による加賀一向一揆攻めの際、佐久間盛政によって陥落したと伝える。


北袋村
きたぶくろむら

[現在地名]羽生市北袋・大沼おおぬま一―二丁目

下藤井しもふじい村の南にあり、西は町場まちば村・下羽生村。田園簿によると田高二四八石余・畑高八三石余(ただし村高は三二一石余とある)、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本三家と幕府領の相給。化政期には旗本四家領で(風土記稿)、幕末の改革組合取調書では同じ四家と幕府領の相給。「風土記稿」によると家数四〇余、鎮守は稲荷社。北河原きたがわら用水を引水するほか、岩瀬いわせ落・宮田みやた落・城沼じようぬま落などの悪水落堀が通る。北河原用水の水量が少ないため、岩瀬落・宮田落に堰を設けて用水として利用していた。


北袋村
きたぶくろむら

[現在地名]八尾町北袋

和山わやま村の東方、室牧むろまき谷東部にある。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは須郷すごう村と合せて記される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳ではみね村の二町ほど北東方にある枝村新田としてみえ、高五〇石。


北袋村
きたぶくろむら

[現在地名]谷和原村北袋

樛木つきぬき村西南、小貝こかい川と川通かわどおり用水の間に位置。「寛文朱印留」によれば古河藩主の叔父土井利房の領地であったが、正徳二年(一七一二)土浦藩土屋氏領(谷原上郷組)となり廃藩置県に及ぶ。


北袋村
きたぶくろむら

[現在地名]北本市高尾たかお

高尾村の北・東にあり、東は原馬室はらまむろ(現鴻巣市)・高尾村。足立郡石戸いしと領に属する(風土記稿)。元禄郷帳に荒井あらい村枝郷として村名がみえる。国立史料館本元禄郷帳では旗本牧野領で、以後同領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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