プロ野球選手(内野手:右投右打)、監督。5月10日、愛媛県生まれ。松山商で1935年(昭和10)に夏の甲子園大会に出場して優勝した。1938年から東京巨人(現、読売ジャイアンツ)の一員となり、名手三原脩(おさむ)から二塁守備を教え込まれた。翌1939年からは引退した三原にかわって正二塁手となり、堅実な守備で名人とうたわれ、またそのプレースタイルから「猛牛」の愛称で親しまれた。1942年から兵役につき、1946年に復帰。1947年から1953年まで連続してベストナインに選ばれたが、二塁手で同賞7回受賞はプロ野球記録である。その巧守とともに有名だったのが、ライト方向への流し打ちと粘り強いバッティング。タイトルとは無縁ながら、チームプレーに徹した打撃で多くの勝利をもたらし、巨人の第一期、第二期黄金時代を攻守両面で支え続けた。1956年に引退、その背番号3は長嶋茂雄(しげお)に引き継がれた。1959年から3年間、近鉄バファロー(のち近鉄バファローズ、大阪近鉄バファローズ)の監督を務めた。近鉄は、前年まで愛称をパールスとしていたが、千葉の監督就任を機に、彼の現役時代の愛称にちなみバファロー(水牛、野牛)に変更した。
[出村義和 2016年9月16日]
選手としての実働15年間の通算成績は、出場試合1512、安打1605、打率2割8分4厘、本塁打96、打点691。獲得したおもなタイトルは、ベストナイン7回。監督としての通算成績(3年)は、322試合、91勝229敗2分け、勝率2割8分4厘。1980年(昭和55)に野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。
[編集部 2016年9月16日]
『千葉茂著『猛牛一代』(1977・恒文社)』▽『千葉茂著『猛牛一代の譜――無冠のセカンド讃歌』(1983・ベースボール・マガジン社)』
昭和期のプロ野球選手,プロ野球監督
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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