升田村
ますだむら
[現在地名]加古川市
東神吉町升田 船頭村の北方、加古川西岸沿いに位置する。マスタともよぶ。中世は益田・益田村とみえる。延慶二年(一三〇九)四月一四日益田村佐伯寺の鐘が大檀那沙弥道仏・円性をはじめ助成人・合力人など三〇名近くの人々により鋳造された。この鐘は現在三木市慈眼寺に残る。佐伯寺は天台宗で、応永年間(一三九四―一四二八)に山名氏清が再興し、その後赤松満祐によって滅ぼされたという(播磨鑑)。康永二年(一三四三、応永二年の誤りか)五月二〇日、赤松義則が後宇多院院宣に任せ、報恩寺領の殺生禁断を命じた加古川筋の地として益田の地名がみえるが(「赤松義則書下案」報恩寺文書)、同文書は検討の余地がある。応永二年九月二〇日、守護赤松氏の命を受けた平実重らは益田村へ入り、三淵伊賀守代へ図師・勧農使等跡所職名田畠などを引渡そうとしたところ、領家の京都大覚寺雑掌が所務目録を証拠にこれに抗議した(「平実重・左衛門尉重義連署請文」大覚寺文書)。
升田村
ますだむら
[現在地名]八幡町升田
日向川上流左岸に位置し、草津村の東にあって北東は百宅村(現秋田県由利郡鳥海町)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一〇六石余、寛永元年庄内高辻帳では高二七六石余。享和三年(一八〇三)には家数七一・人数三六七(「村数家数人高控帳」斎藤文書)。庄内要覧によれば免五ツ二分九厘、家数八九。日向川沿いの最も深い山間の村で、炭焼などの山業に従事する者が多く、窯場をめぐる争いが絶えなかった。文化四年(一八〇七)当村の窯場である鳥海山打立テ坂と物見峠に、遊佐郷村々が無許可の忍窯を設け、翌年には同じ打立テ坂に草津村が窯を設けたことから争論となった。炭は駄賃渡世によって運ばれ酒田や郷方に販売されたが、元治元年(一八六四)升田炭五貫目俵の値段は上三七〇文・中三六五文・下三五〇文で、当村―観音寺村間の運賃は一俵五〇文、観音寺村―酒田間は同六〇文であった。
升田村
ますだむら
[現在地名]平田町楯山
田沢村の東、田沢川の支流楯山川流域の山間村。江戸後期の出羽荘内二郡絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)に楯山川上流からヒノ台・舛田とあり、山麓沿いに集落が散在。「大泉庄三権現縁記」永正三年(一五〇六)の記事に、砂越城主武藤万歳丸領の一つとして「舛田」とある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高五五石余。寛永元年庄内高辻帳では高一五六石余。貞享年間(一六八四―八八)の村組付(飽海郡誌)では高一一四石余、家数一九。
升田村
ますだむら
[現在地名]魚津市升田
角川左岸にあり、北は岩高村、西は早月上野村。舛田とも記す(文化七年「新川郡郷庄附村名書上申帳」加越能文庫)。慶長年間(一五九六―一六一五)松倉城にあった武士の寺主半之丞・尾崎半之丞が開いた地という(下新川郡史稿)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(田林家文書)によると草高一五五石・免五ツ、小物成は鮎川役三匁。
升田村
ますたむら
[現在地名]丸岡町舛田
丸岡城下の南東方向、内田村の南に位置する小村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では田屋村に含まれていたが、正保郷帳で分村、田方一〇七石余・畠方一四石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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