南黒田村(読み)みなみくろだむら

日本歴史地名大系 「南黒田村」の解説

南黒田村
みなみくろだむら

[現在地名]河芸町南黒田

北黒田村の西南に隣接する。北西から南東へ細長く延びる水田を囲む村で、両側山裾集落がある。北黒田村と同じく「和名抄」に載せる「黒田郷」の名を負う。水田には条里地割の痕跡がみられ、「八ノ坪」の地名も残る。文治二年(一一八六)二月一四日付沙門某譲状(醍醐寺文書)などに「伊勢国南黒田御厨」として現れ、京都醍醐だいご寺院家遍智へんち院の房舎・聖教などとともに、僧都実海―僧某―寿海阿闍梨へ相伝されたことが知られるが、また建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)には、

<資料は省略されています>

と注記されていて、延久―永保(一〇六九―八四)年間に遡及する古い公家領荘園であって、神宮へは御贄米三石と勤(雑か)用米三石を納める御厨となっていたことが知られる。その後、建武二年(一三三五)九月二日太政官符(神宮文庫蔵御鎮座伝記紙背文書)に「南黒田五分壱駿河守範貞跡」とみえるのは、おそらくその跡を継いでいるものと思われ、この荘園の地頭職かなにかの得分が五分されてその一分を常葉範貞がもっていたのであろう。


南黒田村
みなみくろだむら

[現在地名]松前町南黒田

現松前町の西南部、北黒田村の東方にあって、南の伊予市とは大谷おおたに川の流路に沿って嵌入した形で接している。北黒田村とは一村をなす黒田村として開拓も古く、江戸時代初期は松山藩領であったが、寛永一二年(一六三五)の「御替地おかえち」の時、村が大洲藩領・松山藩領に二分された。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の黒田村は、村高六七一石一斗三升、うち田六一六石五斗六升九合、畠五四石五斗六升一合、このうち四六二石二斗四升四合が松平隠岐守分、二〇八石八斗八升六合が加藤出羽守分とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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