原山村(読み)はらやまむら

日本歴史地名大系 「原山村」の解説

原山村
はらやまむら

[現在地名]浦和市原山一―四丁目・太田窪だいたくぼ一丁目

大谷口おおやぐち村の西に位置し、北・西・南は大田窪だいたくぼ村。主として洪積台地からなる。田園簿では高七石余で皆畑。江戸時代を通じて幕府領であったと考えられる(田園簿・国立史料館本元禄郷帳など)。「郡村誌」によれば、なんの誤りか年貢皆済目録に原山新田と記したことから、以後その名を用いることになったという。「風土記稿」には原山村とあるが、幕末の改革組合取調書では原山新田とみえ、高二二石余。


原山村
はるやまむら

[現在地名]竹田市小塚おづか

直入なおいり郡西端に位置し、滝水たきみず川最上流にあたり、おか城下から四里。西は肥後国阿蘇郡赤仁田あかにた(現熊本県波野村)、北は田代たしろ村。正保郷帳では大戸ねぎ郷に属し、田方一三石余・畑方一一六石余で、圧倒的に畑地が多い。弘化物成帳では菅生組のうち、村位は下、免三ツ七分、田一七石余(二町一反余)・畑二六七石余(五七町一反余)・屋敷五石余(五反余)で、開田はなく、開畑一〇石余(二〇町余)がある。


原山村
はらやまむら

[現在地名]和束町大字原山

和束川の右岸に位置し、北は鷲峰山じゆぶせん地勢は「一高一卑整一ナラス、耕地ハ山間ニ散在」し、地味は「其色赤黒相交リ其質下等ニ居ル、稲梁ニ適セスシテ稍茶ニ可ナリ、水利不便ニシテ時々旱」にあった(京都府地誌)

江戸時代には和束郷の一村で、高一八一・二三二石、禁裏新御料(享保一四年山城国高八郡村名帳)。明治一〇年代の調べでは、田七町余、畑一〇町、戸口は一〇六戸、四九七人、物産として製茶・大豆・小豆・煙草があった(京都府地誌)


原山村
はらやまむら

[現在地名]四賀村中川なかがわ 原山

松本藩領会田あいだ組で、のち幕府領。虚空蔵こくぞう山城東麓、会田川上流の中川右岸山麓丘上にある。東は横川よこかわ村、西は金井かない村に接する。

天正検地の際は一二二石五斗九升で、「信府統記」によると「御朱印高百四十一石二升三合」で、享保九年(一七二四)当時の石高は二四五石一升、うち田一〇四石八斗九升一合、畑四八石一斗九升八合となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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