原田熊雄(読み)ハラダ クマオ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「原田熊雄」の解説

原田 熊雄
ハラダ クマオ


肩書
貴院議員,男爵

生年月日
明治21年1月7日

出生地
岡山県

出身地
東京都

学歴
京都帝大法科大学政治科〔大正4年〕卒

経歴
明治43年男爵襲爵。学習院高等科、京大で同級の木戸幸一近衛文麿と共に“園公三羽烏”といわれた。学生時代から西園寺公望のもとに出入りして信頼を得る。大正11年日銀入行、13年外遊後、加藤高明首相の秘書官。その後西園寺公望の秘書となり、昭和15年11月の死去まで、西園寺公の目と耳となった。政党政治の擁護と対英米協調路線を信奉する西園寺の意を受けて動き、常に軍部対立、政財界や宮中の最高首脳間を情報収集に飛び回った。この間、6年貴院議員。時局悪化の折、病床にふし、昭和の政局の真相を書き残す必要を感じ、近衛夫人泰子を秘書として口述筆記を続け、その整理には親戚である作家里見弴が当たった。この「原田日記」は東京裁判で検事側の証拠として提出され、後天皇陛下の供覧にふされた。一般には「西園寺公と政局(原田日記)」(全8巻・別巻1 岩波書店)として公刊され、昭和前期の第1級の政治史資料となった。

没年月日
昭和21年2月26日

家族
父=原田 豊吉(東大教授) 祖父=原田 一道(陸軍少将・男爵)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「原田熊雄」の解説

原田 熊雄
ハラダ クマオ

大正・昭和期の政治家,男爵 貴院議員。 西園寺公望の秘書。



生年
明治21(1888)年1月7日

没年
昭和21(1946)年2月26日

出生地
東京

出身地
岡山県

学歴〔年〕
京都帝大法科大学政治科〔大正4年〕卒

経歴
明治43年男爵襲爵。学習院高等科、京大で同級の木戸幸一、近衛文麿と共に“園公三羽烏”といわれた。学生時代から西園寺公望のもとに出入りして信頼を得る。大正11年日銀入行、13年外遊後、加藤高明首相の秘書官。のち西園寺公望の秘書となり、昭和15年11月の死去まで、西園寺の耳目として政党政治の擁護と対英米協調路線を信奉する西園寺の意を受けて動き、常に軍部と対立、政財界や宮中の最高首脳間を情報収集に飛び回った。この間、昭和6年貴院議員。時局悪化の折、病床に伏し、昭和の政局の真相を書き残す必要を感じ、近衛夫人泰子を秘書として口述筆記を続け、その整理には親戚である作家里見弴が当たった。この「原田日記」は東京裁判で検事側の証拠として提出され、天皇陛下の供覧にもふされた。一般には「西園寺公と政局(原田日記)」(全8巻・別巻1 岩波書店)として公刊され、昭和前期の第1級の政治史資料となった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「原田熊雄」の解説

原田熊雄 はらだ-くまお

1888-1946 昭和時代前期の政治家。
明治21年1月7日生まれ。原田豊吉長男。日本銀行勤務をへて,加藤高明首相の秘書官となる。大正15年西園寺公望(さいおんじ-きんもち)の秘書となり,側近として政界情報を収集。昭和6年貴族院議員。死後公刊された「西園寺公と政局」(「原田日記」)は昭和史の貴重な史料となっている。昭和21年2月26日死去。59歳。東京出身。京都帝大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「原田熊雄」の解説

原田 熊雄 (はらだ くまお)

生年月日:1888年1月7日
大正時代;昭和時代の政治家。西園寺公望の秘書
1946年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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