原田豊吉(読み)はらだとよきち

精選版 日本国語大辞典 「原田豊吉」の意味・読み・例文・類語

はらだ‐とよきち【原田豊吉】

地質学者。東京出身。農商務省地質局次長、東京帝国大学理学部教授を兼任日本地形・地質を系統的に整理し、独自の地質構造論を展開した。著に「日本群島」など。万延元~明治二七年(一八六〇‐九四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「原田豊吉」の意味・わかりやすい解説

原田豊吉
はらだとよきち
(1860―1894)

明治前期の地質学者。幕府洋学教官の長子として江戸小石川に生まれ、大阪開成所、東京外国語学校に学ぶ。1874年(明治7)駐在武官となった父に従ってドイツに留学、フライブルク鉱山学校を卒業。ハイデルベルク大学ローゼンブッシュ岩石学を、ミュンヘン大学ツィッテルに古生物学を学んで、ルガノ湖畔の噴出岩研究で学位を取得、オーストリア地質調査所に勤めた。1883年帰国し、農商務省地質調査所に入り、翌1884年東京大学教授を兼任、日本人最初の地質学教授となる。1885年農商務省地質局次長に進み、開業時指導者ナウマン解傭(かいよう)後の地質調査事業を推進した。1889年『日本地質構造論』、1890年『日本群島』を著し、ナウマンの単一褶曲(しゅうきょく)構造説に対し、弧状山脈群対曲説を提唱、とくにフォッサマグナの解釈で論争した。1891年肺結核治療にコッホを訪ねて再渡欧し、翌1892年小康を得て帰国したが、再起できずに明治27年死去した。

石山 洋 2018年9月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「原田豊吉」の意味・わかりやすい解説

原田豊吉 (はらだとよきち)
生没年:1860-94(万延1-明治27)

地質学者。江戸で岡山藩士の子として生まれた。明治維新後,父原田一道が軍人としてドイツに赴任したため,1874年ドイツに行き,基礎教育を受けた後,ザクセンのフライベルク鉱山学校で鉱山地質学を学ぶ。80年卒業後ハイデルベルク大学で岩石学を,またミュンヘン大学で古生物学を学び,82年学位を得る。次いでオーストリア地質調査所でアルプスの地質調査を行い,日本の登山界のアルプス登攀の先駆者としても名を残した。83年帰国,地質調査所に入り,翌84年東京大学講師を兼ね,86年古生物学の教授となった。

 1889年には《日本地質構造論》をドイツ語と日本語で出版し,日本地質学の創始者の一人,E.ナウマンの日本列島を一大弧状山脈とするフォッサマグナ説を批判して,日本列島は複数の弧状山脈が結合したものとした。ナウマンはこれに反論し,論争はしばらく続いた。原田はその後結核にかかり,当時最新のR.コッホのツベルクリンによる治療を受けるため91年ドイツに赴き入院したが,翌年帰国,93年地質調査所長を辞任。なお洋画家原田直次郎は実弟,《西園寺公と政局》(原田日記)で知られる政治家原田熊雄(1888-1946)は長男である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「原田豊吉」の解説

原田豊吉

没年:明治27.12.2(1894)
生年:万延1.11.21(1861.1.1)
明治時代の地質学者。岡山藩士で洋式兵学者の原田一道の長子として江戸小石川に生まれる。明治7(1874)年父に連れられてドイツに渡り,近代地質学発祥の地フライベルクの鉱山アカデミーを経て,ハイデルベルク大学とミュンヘン大学で岩石学と古生物学を学ぶ。ウィーンの地質調査所に1年間勤務したのち,16年に帰国。10年間日本の地質学を指導してきたお雇い外国人ナウマンがドイツに帰った18年に,日本人初の東大地質学科教授に就任した。最新の地質学を身につけ,ナウマンと対等に議論できる者として期待された原田は,ナウマンの業績を受け継ぎながらも,あえて自説を立てるのに急なところもあったようだ。22年病を得て大学を辞し,兼務していた地質調査所の次長も翌年休職する。このため主著《Die japanischen Inseln eine topographische geologische Uebersicht(日本群島―地形学的,地質学的概観)》(1890)も未完に終わっている。フォッサ・マグナの成因をめぐる論争は,ウィーンの大地質学者ジュースを巻き込む形で進行しており,日本地質学自立の好機だったが,原田の夭折や帰国後のナウマンの大学ポスト獲得失敗などで,中途半端に終わってしまった。洋画家直次郎は弟,『原田日記』の著者熊男は息子。<参考文献>今井功『黎明期の日本地質学』,山下昇「原田豊吉の日本群島地質構造論」(『地質学雑誌』99巻4号)

(谷本勉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「原田豊吉」の意味・わかりやすい解説

原田豊吉
はらだとよきち

[生]万延1(1860).11.21. 江戸,小石川
[没]1894.10.1.
黎明期の地質学者。 14歳でドイツへ留学,ハイデルベルク大学などに学び,オーストリアの地質調査所に勤務し,1883年帰国。ただちに農商務省に入り地質調査次長となり (1886) ,東京大学で化石学の講義を担当。ドイツの地質学者 E.ナウマンとの間に行われた日本の地質構造に関する論争は,ナウマン=原田論争として著名。ナウマンのフォッサマグナ説の批判に始った原田の構造論は,日本列島を千島,東北日本,西南日本,琉球などの弧状褶曲山脈の結合とみ,それぞれ対曲していると説明した。主著『日本地質構造論』 (88) ,『日本群島』 (90) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「原田豊吉」の意味・わかりやすい解説

原田豊吉【はらだとよきち】

地質学者。江戸小石川の生れ。14歳でドイツに留学,ハイデルベルク大学,ミュンヘン大学およびオーストリアの地質調査所などで地質学を学び,1883年帰国。地質調査所次長,東大教授。1888年対曲説をもとに日本列島の独自の地質構造論を発表してH.E.ナウマンのフォッサマグナ説を批判。主著は《日本群島の構造上の区分の試み》(1888年),《日本群島,地形地質の概観》(1890年)。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「原田豊吉」の解説

原田豊吉 はらだ-とよきち

1861*-1894 明治時代の地質学者。
万延元年11月21日生まれ。原田一道の長男。明治7年父にしたがってドイツへいき,ミュンヘン大などでまなぶ。帰国後,地質調査所次長,帝国大学教授。日本列島の構造について,単一説をとるナウマンのフォッサ-マグナ後生説を批判し,論争となった。明治27年12月2日死去。35歳。江戸出身。著作に「日本群島地質構造論」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の原田豊吉の言及

【大蔵氏】より

…数流あるが最も著名なのは古代・中世に九州で繁栄した一族。渡来人阿知使主(あちのおみ)の子孫という倭漢氏(やまとのあやうじ)が大和朝廷の大蔵(財政機関)を預かったことにより大蔵を称するようになる。天慶年中(938‐947),藤原純友の乱に追討使として大蔵春実が九州に下向して以来,孫種材が刀伊の入寇に活躍するなど,その子孫は大宰府の官人として九州管内の各地に勢力をのばした。平安末期,平氏政権と結びついた大蔵(原田)種直が大宰権少弐に任ぜられ一族の多くも大宰府の要職をしめて勢威をほこったが,平氏滅亡とともに没落した。…

【原田氏】より

…古代,中世の北九州の豪族。本姓大蔵氏。藤原純友の追捕使大蔵春実の裔とするが確証はない。11世紀,刀伊の入寇に活躍した大宰大監種材が府官大蔵氏の初見。以後,大監を世襲し,12世紀中ごろ,種平は検非違使執行を兼ね,武力で所領を拡大し,一族は拒捍使(きよかんし)に任じられる。子種直は怡土郡原田荘,那珂郡岩戸を本拠に平家方人となり,1181年(養和1)大宰権少弐に任命され,北九州随一の府官として治承・寿永の内乱に活躍した。…

※「原田豊吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android