明治前期の地質学者。幕府洋学教官の長子として江戸小石川に生まれ、大阪開成所、東京外国語学校に学ぶ。1874年(明治7)駐在武官となった父に従ってドイツに留学、フライブルク鉱山学校を卒業。ハイデルベルク大学でローゼンブッシュに岩石学を、ミュンヘン大学でツィッテルに古生物学を学んで、ルガノ湖畔の噴出岩研究で学位を取得、オーストリア地質調査所に勤めた。1883年帰国し、農商務省地質調査所に入り、翌1884年東京大学教授を兼任、日本人最初の地質学教授となる。1885年農商務省地質局次長に進み、開業時指導者ナウマン解傭(かいよう)後の地質調査事業を推進した。1889年『日本地質構造論』、1890年『日本群島』を著し、ナウマンの単一褶曲(しゅうきょく)構造説に対し、弧状山脈群対曲説を提唱、とくにフォッサマグナの解釈で論争した。1891年肺結核治療にコッホを訪ねて再渡欧し、翌1892年小康を得て帰国したが、再起できずに明治27年死去した。
[石山 洋 2018年9月19日]
地質学者。江戸で岡山藩士の子として生まれた。明治維新後,父原田一道が軍人としてドイツに赴任したため,1874年ドイツに行き,基礎教育を受けた後,ザクセンのフライベルク鉱山学校で鉱山地質学を学ぶ。80年卒業後ハイデルベルク大学で岩石学を,またミュンヘン大学で古生物学を学び,82年学位を得る。次いでオーストリア地質調査所でアルプスの地質調査を行い,日本の登山界のアルプス登攀の先駆者としても名を残した。83年帰国,地質調査所に入り,翌84年東京大学講師を兼ね,86年古生物学の教授となった。
1889年には《日本地質構造論》をドイツ語と日本語で出版し,日本地質学の創始者の一人,E.ナウマンの日本列島を一大弧状山脈とするフォッサマグナ説を批判して,日本列島は複数の弧状山脈が結合したものとした。ナウマンはこれに反論し,論争はしばらく続いた。原田はその後結核にかかり,当時最新のR.コッホのツベルクリンによる治療を受けるため91年ドイツに赴き入院したが,翌年帰国,93年地質調査所長を辞任。なお洋画家原田直次郎は実弟,《西園寺公と政局》(原田日記)で知られる政治家原田熊雄(1888-1946)は長男である。
執筆者:清水 大吉郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(谷本勉)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…数流あるが最も著名なのは古代・中世に九州で繁栄した一族。渡来人阿知使主(あちのおみ)の子孫という倭漢氏(やまとのあやうじ)が大和朝廷の大蔵(財政機関)を預かったことにより大蔵を称するようになる。天慶年中(938‐947),藤原純友の乱に追討使として大蔵春実が九州に下向して以来,孫種材が刀伊の入寇に活躍するなど,その子孫は大宰府の官人として九州管内の各地に勢力をのばした。平安末期,平氏政権と結びついた大蔵(原田)種直が大宰権少弐に任ぜられ一族の多くも大宰府の要職をしめて勢威をほこったが,平氏滅亡とともに没落した。…
…古代,中世の北九州の豪族。本姓大蔵氏。藤原純友の追捕使大蔵春実の裔とするが確証はない。11世紀,刀伊の入寇に活躍した大宰大監種材が府官大蔵氏の初見。以後,大監を世襲し,12世紀中ごろ,種平は検非違使執行を兼ね,武力で所領を拡大し,一族は拒捍使(きよかんし)に任じられる。子種直は怡土郡原田荘,那珂郡岩戸を本拠に平家方人となり,1181年(養和1)大宰権少弐に任命され,北九州随一の府官として治承・寿永の内乱に活躍した。…
※「原田豊吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新