茨城県南部の市,2005年3月旧取手市が藤代(ふじしろ)町を編入して成立した。人口10万9651(2010)。
取手市南西部の旧市で,利根川北岸に位置する。1970年市制。人口8万2527(2000)。市域のほとんどは常総台地の南端部と利根川,小貝(こかい)川の沖積地からなる。江戸時代には水戸街道(現,国道6号線)の渡船場をかねた宿場町として,また利根川水運の拠点として栄え,河岸が発達した。1896年日本鉄道海岸線(現,JR常磐線)が開通,1913年には下館と結ぶ常総鉄道(現,関東鉄道常総線)も開通し,30年には国道6号線の大利根橋が架橋され,県南部の交通の要地として発展した。49年に常磐線の松戸~取手間の電車運転が始まり,82年には地下鉄千代田線も乗り入れ東京との結びつきがいっそう強まった。1960年代末,東京圏の住宅地拡大現象を背景に,市域西部を占める台地で住宅団地造成が始まり,以後ベッドタウン的傾向は年ごとに強まっている。新住民の大半は,東京への通勤者とその家族が占め,茨城都民とも称される。60年以降,電気機器,精密機械,ビールなどの工場が進出し,工業化も進んでいる。
執筆者:中川 浩一
取手市北東部の旧町,旧北相馬郡所属。人口3万3466(2000)。小貝川最下流の沿岸低地を占め,東は竜ヶ崎市,南西は旧取手市に接する。ほぼ中央をJR常磐線と国道6号線が横断している。江戸時代初期に伊奈忠次・忠治父子の岡堰造成などの治水工事によって新田が開発された。〈相馬二万石〉と称された穀倉地域の一部をなすが,小貝川,利根川がたびたびはんらんし,破堤しては被害を被ってきた。中心集落の藤代は江戸時代,水戸街道の宿場町として栄えた。農業,特に米作を主産業としてきたが,都心から40km圏内にあり,交通も至便なため1960年代後半以降東京のベッドタウン化が進んでいる。63年の工場誘致条例制定以降工場進出もみられ,71年には国道6号線沿いに食品関係の工場が進出した。農業は米作が大部分を占める。水害常襲地域であった高須地区では水塚や田舟を残す農家がみられる。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
茨城県南部にある市。1970年(昭和45)市制施行。2005年(平成17)北相馬(きたそうま)郡藤代町(ふじしろまち)を編入。古く城跡があって砦(とりで)といったのが地名の由来。のち取出と書き、1673年(延宝1)取手と改称した。北相馬台地と利根(とね)川、小貝(こかい)川の沿岸低地をもつ。JR常磐(じょうばん)線(東京地下鉄千代田線が乗り入れる)、関東鉄道常総(じょうそう)線、国道6号、294号が通じる。中世の相馬御厨(みくりや)の地で相馬氏の支配を経て近世は佐倉(さくら)藩、関宿(せきやど)藩、前橋藩などが支配し、天領、旗本領もあった。水戸街道の宿場町、利根川水運の要地で、取手宿、取手河岸(かし)として栄えた。かつては灯心に使う藺草(いぐさ)栽培が盛んだった所で、現在は利根川下流・小貝川米作地帯の一部をなす。近代工業が発達し、食品、機械、電気機器、金属工業が盛大で、茨城県では上位に並ぶ工業都市。1949年の日本国有鉄道(国鉄。現、JR)開通以来、東京への通勤者と住宅団地が増加し人口が急増した。竜禅寺(りゅうぜんじ)三仏堂は国指定重要文化財、旧取手宿本陣染野(そめの)家住宅は県指定文化財。徳川家康(いえやす)の家臣で「一筆啓上火の用心…」の手紙で知られる本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)(1529―1596)の墳墓は県指定史跡。面積69.94平方キロメートル、人口10万4524(2020)。
[櫻井明俊]
『『取手市史 民俗編・民家編・近世史料編・通史編』(1980~1996・取手市)』
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