日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田岩窟王事件」の意味・わかりやすい解説
吉田岩窟王事件
よしだがんくつおうじけん
1913年(大正2)に愛知県で起きた強盗殺人事件の主犯とされ、無期懲役判決を受けた吉田石松(いしまつ)(1879―1963)が、約50年の歳月をかけて無実を訴え続け、再審無罪となった事件。その雪冤(せつえん)にかける姿が、無実の罪で投獄された男の人生を描くアレクサンドル・デュマの小説の主人公モンテ・クリスト伯になぞらえられ、吉田は「昭和の岩窟王」「日本の岩窟王」とよばれた。
[江川紹子 2017年1月19日]
事件発生~服役
事件は、1913年8月13日夜に愛知県愛知郡千種(ちくさ)町(現在の名古屋市千種区今池付近)の路上で起きた。繭仲買人の男性が男に襲われ、鈍器で頭を殴られて殺害され、現金1円20銭の入った財布を奪われた。その翌日、北河芳平(26歳)と海田庄太郎(22歳)が逮捕された。北河は全面的に犯行を認めたが、海田は殺害行為を否認し、主犯として吉田(34歳)をあげた。その後、北河もそれにあわせる供述に変更。吉田は逮捕され、意識を失うまで殴る蹴(け)るの激しい拷問(ごうもん)を受けたが、否認を貫いた。
名古屋地裁は1914年4月、吉田に死刑、北河と海田に無期懲役の判決を言い渡した。北河と海田は控訴せずに服罪。吉田は無実を訴えて控訴した。名古屋控訴院は1914年7月の判決で、一審判決を取り消したが、有罪は変わらず、量刑は無期懲役となった。大審院への上告も11月3日に棄却された。
吉田は、当初小菅監獄(こすげかんごく)で服役したが、毎日のように規則を無視して無実を叫び、ひたすら冤罪を訴えたため、獄内でたびたび懲罰を受けた。このため、凶悪犯の不労囚として、1918年に網走(あばしり)監獄へ移送されたが、ここでも「自分は囚人ではない」と言って就労せず、慟哭(どうこく)して冤罪を訴えるなどして、何度も厳しい懲罰を受けた。獄中で受けた懲罰は53回に及ぶ。獄内から二度にわたって再審請求を行っては棄却され、司法大臣への請願を繰り返し、警察署長へも捜査のやり直しを願う手紙を送り続けた。
1925年(大正14)に秋田刑務所へ移送されたが、ここでも反抗闘争を続け、懲罰の連続であった。刑務所長から、「気持ちはわかる。再審の訴えをするためにも、1日も早く出所することが大切」と諭され、出所して自分で冤罪を晴らすことを決意。その後は反抗することもなく、刑務作業にいそしむようになった。
[江川紹子 2017年1月19日]
再審請求
吉田は、1935年(昭和10)3月21日に仮出所となった後、東京の弟宅に身を寄せ、廃品回収の仕事をしながら、1930年に仮出所していた北河と海田の行方を捜し始めた。警察や検察を訪ね、さらに司法記者クラブを訪れて新聞記者にも協力を求めた。話を聞いた記者らの協力で北河の居所がわかり、吉田が訪ねると、北河は偽証を認め謝罪する覚書きを書いた。その後、やはり記者の調査で海田の居場所もわかった。吉田が赴くと、海田は土下座をして謝罪したので、同行したカメラマンがその姿を撮影した。海田も「お前を引き入れて悪かった。勘弁してくれい。自分の罪を軽くならうと思って、うそを云った」(ママ)とするわび状を書いた。
こうした証拠を元に、1937年11月に第3次再審請求を起こしたが、名古屋高裁は北河の覚書きも海田のわび状も、吉田に脅迫されて書いたものとして、1944年に請求を棄却した。吉田は抗告したが、翌1945年(昭和20)の空襲で裁判所も被災し、記録は焼失した。
吉田は栃木県に疎開したが、そこでも無実を訴え、それを聞いた地元の人々が連署で再審を求める運動が起きた。
1952年から、吉田の訴えを受けた東京法務局人権擁護部が調査を開始。焼失を免れた一、二審の判決などを集め、海田の居所も突き止めて、事情を聴取。海田は自己の責任を回避する発言に終始し、わび状を書いたことも否認したが、吉田が本事件に関与したという証言が虚偽であることは認めた。
1958年1月に第4次再審請求を行ったが、翌1959年7月に棄却。翌月、最高裁に抗告を棄却された。
裁判に絶望した吉田が、法務大臣へ直訴をしようと法務省を訪れ、面会を求めているところに、通りかかった同省刑事局参事官の安倍治夫(あべはるお)(1920―1999)が自室に招き入れて、話を聞いた。現職の検事でもありながら、安倍は吉田の話を聞いた後、日本弁護士連合会の人権擁護委員会を紹介する一方、論文「再審理由としての証拠の新規性と明白性」を執筆するなど、理論面で再審を支えた。日弁連の同委員会は本件の再審特別委員会を設置して調査を始め、吉田のアリバイ証人を探し出した。
[江川紹子 2017年1月19日]
再審開始決定~無罪判決
1960年11月28日、第5次再審請求を行った。名古屋高裁第4部は、翌1961年1月から2月にかけ、北河や海田が吉田にわびた場面に立ち会った記者やアリバイ証人などを相次いで取り調べる集中審理を行った。そして1961年4月1日、吉田を有罪とする決定的な証拠はなく、北河と海田の原審での証言も虚偽として、再審開始を決定した。
これに検察側が異議を申し立て、1962年1月30日、名古屋高裁第5部が再審開始決定を取り消した。弁護側は特別抗告。同年10月30日、最高裁大法廷は、事件の内容には踏み込まず、法律論で異議審の決定を取り消し、検察側の異議を棄却したため、再審開始決定が確定した。すなわち、最高裁の決定によれば、旧刑事訴訟法時代の再審手続きは旧刑訴法で行うべきとし、同法は高裁での決定に対して同じ高裁に異議申立をする制度は認めていないことから、現刑訴法に基づいて行われた検察側の異議申立は不適法と判断した。
この決定により、再審公判は旧刑訴法で裁くことになり、1962年12月6日、名古屋高裁第4部(小林登一裁判長)で審理が始まった。その後まもなく、すべて焼失したと思われていた確定裁判記録の一部が、名古屋高検の倉庫でみつかった。逮捕当日に海田と2人で事件を起こしたと自白する北河の調書や、吉田が予審判事に対して否認をした調書などもあった。
1963年2月28日、同高裁は吉田のアリバイを認め、無罪を言い渡した。判決は、原審の有罪判決について「わが裁判史上かつてない誤判」と認め、それが吉田を「獄窓のうちに呻吟(しんぎん)せしめるに至った」ことを「まことに、痛恨おく能(あた)わざるものがある」としたうえで、判決理由を次のような文言で締めくくった。
「当裁判所は、被告人、否、ここでは被告人というに忍びず、吉田翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した過誤を、ひたすら陳謝すると共に、実に半世紀の久しきに亘り、よくあらゆる迫害に堪え、自己の無実を叫び続けてきたその崇高なる態度、その不撓不屈(ふとうふくつ)の正に驚嘆すべき精神力、生命力に対して、深甚なる敬意を表しつつ、翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である。よって、主文の通り判決する」
判決文を読み上げた後、3人の裁判官は吉田に頭を下げた。
本判決は、裁判所が過去の過ちについて判決文で謝罪する、きわめて希有(けう)な事例となった。検察側は上告せず、無罪は確定した。
吉田は、無罪確定後に体が衰弱し、1963年12月1日、84歳で死去した。
本件をきっかけに、国会で再審制度のあり方を議論する動きもあった。衆議院法務委員会は、いったん出た再審開始決定が取り消された後の1962年2月27日、吉田と主任弁護人の後藤信夫らを参考人として招致。同委員会に再審制度調査小委員会を設置して、再審のあり方を議論した。
[江川紹子 2017年1月19日]
『後藤信夫著『日本の岩窟王――吉田石松翁の裁判実録』(1977・教文館)』▽『青山与平著『真実は生きている――日本巌窟王五十年目の無実』(1985・ぎょうせい)』