吉谷村(読み)よしだにむら

日本歴史地名大系 「吉谷村」の解説

吉谷村
よしだにむら

[現在地名]小千谷市吉谷

南の真人まつと市之沢いちのさわの分水嶺付近から発する茶郷ちやごう川の上流の河谷平地。西は刈羽郡境の小国おぐに峠を中心に南北に連なる山地を背にする。茶郷川上流から迯入にぎり二俣ふたまた茶合ちやごう藤田沢とうたざわ滝谷たきや高畑たかばたけ水口みなくち打越うちこし上村うわむら集落がある。魚沼神社(旧上弥彦社)蔵の鰐口に永享九年(一四三七)銘で「越後国魚(ママ)郡吉谷村」とみえる。文明五年(一四七三)一二月一八日の雲照寺妙瑚証状(魚沼神社文書)に「魚沼郡吉谷村」とあり、吉谷村には魚沼神社の一八末社があった。


吉谷村
よしたにむら

[現在地名]婦中町吉谷

下条げじよう川の上流渓谷間に擂鉢状に立地。一キロ下流に平等だいら村がある。西は嘉礼谷かれいだに村、南は鶚谷みさごだに村。地名の由来は蘆(葭)が繁茂していたことによると考えられる(婦負郡志)正保郷帳では高八一石余、田方四町一反余・畑方一町三反。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高八一石余。享保六年(一七二一)の高一二〇石(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高一〇二石・定免三ツ三歩六厘、新田高六石余・平均免一ツ三歩余、小物成は山役八四匁八分(高物成品々手鏡)


吉谷村
よしたにむら

[現在地名]能都町柿生かきお

神道じんどう村の西に位置し、「三州志」に垣内として境谷さかいだにがみえる。「能登名跡志」によると、西の武連むれ村との境の武連越によしヶ池があり、「昔蛇の住せしと云ておそろしき池あり」と記される。享禄五年(一五三二)五月の穴水村・諸橋六郷長衆交名案(諸橋文書)に、諸橋六郷衆として「山田吉谷」の太郎左衛門尉の名がみえる。正保郷帳では高一二七石、田方四町余・畑方四町四反。承応三年(一六五四)の村御印の高一四三石余、免四ツ五歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一五三石、免四ツ九歩、小物成は山役六〇匁・炭竈役二五匁(三箇国高物成帳)


吉谷村
よしたにむら

[現在地名]鯖江市吉谷町

橋立はしたて山の南麓、鞍谷くらたに川の東側、橋立村の東に位置する。応永二三年(一四一六)の方上庄春日社社司方田畠注文写(安楽寺蔵文書)に「一反 御庄 河野三郎左衛門寄進」とあり、もと御庄とよばれた地で、寛永元年(一六二四)藩主松平忠昌が鷹狩のため当地に一宿した際、吉谷に変えたという。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では片上かたかみ庄に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方五四九石余・畠方三二六石余。福井藩領。

北部春日かすが山の中腹に春日社があった。「越前国名蹟考」の引く縁起によれば「片山七村惣社、昔は坊社有之処、天正の兵火にかゝりて退転す」という。


吉谷村
きちだにむら

[現在地名]岩国市大字天尾てんのお 吉谷

天尾四ヵ村のうちで、にしき川の北岸、川尻かわじり村の西に集落がある。村域は北西山間を含み、小郷こごう川を隔てて萩藩領南桑なぐわ(現玖珂郡美川町)に接する。

寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に「天尾の内 吉谷村」とみえる。村名の由来は「玖珂郡志」に「貞和元年、伊賀良ト云地頭居住、依之、吉キ谷ト云カ」と記す。


吉谷村
きつたにむら

[現在地名]吉川町吉安きちやす

美嚢みの川支流吉安川右岸に位置し、南西安場やすば村。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となり、幕末に至る(正保郷帳・「寛文朱印留」・旧高旧領取調帳など)。正保郷帳では田方二七二石余・畑方一八石余。元禄郷帳でも同高で、キチダニと訓が付される。天保郷帳では高三四二石余。田方は定免で四ツ九分五厘(美嚢郡誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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