橋立村(読み)はしたてむら

日本歴史地名大系 「橋立村」の解説

橋立村
はしたてむら

[現在地名]加賀市橋立町

江沼えぬま郡南西部の日本海に面する村で、東にてん崎、西に加佐かさノ岬が突出し、海岸線は海食崖・海食台が発達、地名も海辺の岩が高くそびえて梯を押立てたようであるからという(加賀志徴)。寿永二年(一一八三)五月二日、越前を攻略して加賀に乱入した平維盛軍の後陣は「黒崎・橋立・追塩」などに布陣した(「源平盛衰記」巻二八)。「天文日記」天文一八年(一五四九)一一月八日条・同二一年二月二三日条によると、本願寺直参衆の「橋立正乗」が三十日番衆として上番している。越前朝倉教景の加賀侵攻に対する天文二四年八月一三日の加州四郡総反撃のとき、前夜に遠篝を焚いた所の一つに「橋立」があった(朝倉始末記)


橋立村
はしたてむら

[現在地名]西会津町新郷しんこう豊洲とよす

井谷いだに村の西、阿賀川右岸に位置し、南は戸中とちゆう村、北は柴崎しばさき村、阿賀川対岸西方は河沼郡上野尻かみのじり村。耶麻郡吉田組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に橋立とみえ、高八六石余。寛文五年(一六六五)の「吉田組風土記」によると高五七石余、免二ツ六分五厘四毛、反別は田方一町二反余・畑方七町六反余、家数四(竈数六)、男一〇・女一三、馬一。紙漉一がおり、綿役銀七匁四分八厘余・山役銀一匁五分六厘・役漆木一千九二本六分などを負担していた。越後街道の脇道の一、じんみね峠越経由で搬出される会津藩廻米は当地付近で阿賀川右岸から左岸へと渡河したが、宝暦七年(一七五七)には従来の柴崎船場を廃止、当村の船場から上野尻村の中島なかじま船場への横渡しに変更された(石本家文書)


橋立村
はしだてむら

[現在地名]青海町橋立

青海川の上流、標高一〇〇メートルの高地山中に三集落があり、北から左岸に清水倉しみずくら、それより約一・五キロ上流に橋立、対岸に真砂まなごがある。青海川発電所は清水倉にあり、翡翠(硬玉岩塊)真砂橋より上流の河床にあり、青海川の硬玉産地として国指定天然記念物。橋立から約四・五キロのぼると発電所の堰堤があり、そこから右折して山道をたどること三・五キロで坂田さかた峠にかかる。それより約三キロで上路あげろ村に至る。村内の地蔵堂の永正一五年(一五一八)銘鰐口に「奉地蔵 越後国西浜沼川保内橋立村 永正十五年戊四月廿四日 竹花□□」とある。現在橋立には武藤・渡辺の二姓しかなく、集落の成立の古さを推測させる。


橋立村
はしたてむら

[現在地名]一宮町東原ひがしばら

かね川の扇状地に位置し、東は東原村。村名は地内の橋立明神に由来するという。慶長古高帳に橋立とみえ高三四石余、幕府領。ほかに橋立明神領四石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本田中がみえ、元禄郷帳では同家領と同社領。宝永二年(一七〇五)以降の領主の変遷はいちみや村に同じ。天保一三年(一八四二)の村明細帳写(武田広家文書)によると、慶長六年(一六〇一)の検地高三九石余・反別二町六反余。延享二年(一七四五)の田中氏による新田畑検地高四石余・反別七畝余。


橋立村
はしたてむら

[現在地名]鯖江市橋立町

橋立山の南、鞍谷くらたに川西側に位置する。南は舟枝ふなえだ村、東は吉谷よしたに村。至徳元年(一三八四)正月一一日の助当寄進状(安楽寺蔵文書)に「在所橋立有之」とみえる。また元亀二年(一五七一)一二月一八日の元山大師寄進分所々買得目録(中道院文書)に「在坪橋立村云々」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では片上かたかみ庄に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方五二一石余・畠方七三石余。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、享保五年(一七二〇)から鯖江藩領。


橋立村
はしたてむら

[現在地名]今庄町橋立

日野川の上流にある谷間の村。南東は広野ひろの村、北西は宇津尾うつお村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では三尾川内みおのこうちに含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方一〇三石余・畠方四八石余。福井藩領。枝村として「越前国名蹟考」は鍛冶かじ、「越前地理指南」はどう村を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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