同治帝(読み)どうちてい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「同治帝」の意味・わかりやすい解説

同治帝
どうちてい
(1856―1875)

中国、清(しん)朝第10代の皇帝在位1861~75)。名は載淳。諡(おくりな)は毅(き)皇帝。廟号(びょうごう)は穆宗(ぼくそう)。年号によって同治帝とよばれる。咸豊(かんぽう)帝の長子で、生母は葉赫納喇(イエヘナラ)氏(西太后(せいたいこう))。咸豊帝がイギリス・フランス連合軍の北京(ペキン)侵入のため熱河(ねっか)で病没すると5歳で即位したが、西太后は恭親王奕訢(きょうしんおうえききん)と手を結び、対外保守派の粛順(しゅくじゅん)を処刑して実権握り、以後50年近く政治を左右した。太平天国軍、捻(ねん)軍の反清勢力をそれぞれ1864年、68年に漢人官僚の曽国藩(そうこくはん)や外国勢力の力を借りて鎮圧した。19歳で帝は親政したが、満州人にかわって台頭した曽国藩、李鴻章(りこうしょう)らの漢人官僚の力と、対外国協調政策とによって相対的に安定した時期で、「同治中興」と称される。漢人官僚を中心として西洋近代科学を吸収し富国強兵を図ろうとする洋務運動が展開され始め、軍事、造船工業、通信設備などが改革された。帝は天然痘で病没したとされるが、のちに対立した西太后の手にかかったともいう。

[細谷良夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「同治帝」の意味・わかりやすい解説

同治帝 (どうちてい)
Tóng zhì dì
生没年:1856-75

中国,清朝第10代の皇帝。在位1861-75年。名は載淳(さいじゆん)。廟号は穆宗(ぼくそう)。父は咸豊帝,母は西太后である。咸豊帝の没後,西太后はクーデタを起こして権力を掌握し,幼帝を擁して垂簾政治を行った。そして洋務派官僚の主導のもと,〈同治中興〉と称せられる相対的安定期を実現している。1873年(同治12),ようやく親政に入るが,まもなく19歳の若さで死没,子どもがなかったため,帝位を継いだのは,西太后の甥光緒帝(こうちよてい)であった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「同治帝」の意味・わかりやすい解説

同治帝
どうちてい
Tong-zhi-di; T`ung-chih-ti

[生]咸豊6(1856).3.23. 北京
[没]同治13(1875).12.5. 北京
中国,清朝の第 10代皇帝 (在位 1861~75) 。諱は載淳。諡は毅皇帝。廟号は穆宗。咸豊帝のただ1人の男子。生母は西太后。咸豊帝死後の内紛を経て5歳で即位。東太后,西太后が摂政恭親王奕 訢 (えききん) が議政王として政治を左右。同治 12 (73) 年親政に入ったが,実権は西太后が握り,実際には政治に関与しないで病没。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「同治帝」の解説

同治帝(どうちてい)
Tongzhidi

1856~75(在位1861~75)

の第10代皇帝。廟号は穆宗(ぼくそう)。咸豊(かんぽう)帝の子。母は西太后(せいたいこう)。1873年成年に達し親政を行ったが,実権は生母の西太后に握られたままでなんらなすところがなかった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「同治帝」の解説

同治帝
どうちてい

1856〜75
清朝第10代皇帝,穆宗 (ぼくそう) (在位1861〜75)
5歳で即位。病弱で実権は生母西太后 (せいたいこう) が握り,洋務派官僚の主導による同治中興にはほとんど関与していない。

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