日本歴史地名大系 「名塩村」の解説 名塩村なじおむら 兵庫県:西宮市名塩村[現在地名]西宮市名塩一―三丁目・塩瀬町名塩(しおせちようなじお)・清瀬台(きよせだい)・名塩新町(なじおしんちよう)・東山台(ひがしやまだい)一―五丁目・国見台(くにみだい)一―六丁目・名塩南台(なじおみなみだい)一―四丁目・名塩山荘(なじおさんそう)・名塩ガーデン・名塩平成台(なじおへいせいだい)・名塩茶園町(なじおちやえんちよう)・名塩(なじお)さくら台(だい)一―四丁目有馬(ありま)郡に属し、生瀬(なまぜ)村の北西、武庫(むこ)川に注ぐ名塩川が形成する東西に長い谷のほぼ中央部に集落が位置する。教行寺縁起(教行寺蔵)によると文明七年(一四七五)九月、越前吉崎(よしさき)(現福井県金津町)から若狭・丹波を経て広根(ひろね)(現猪名川町)に至った蓮如が、名塩の村人に招かれて地内中山(なかやま)の草庵に留錫したとあり、当時の名塩付近の家数は二四軒にすぎなかったという。以後、中山の寺庵は大きく発展して教行(きようぎよう)寺となり、永正八年(一五一一)一二月二六日の三好神一郎禁制(教行寺文書)は「名塩村寺内」に出され、名塩は教行寺の寺内的性格を有し始める。天文一九年(一五五〇)八月一六日の有馬村秀寄進状(同文書)によると、淡河(おうご)(現神戸市北区)の領主村秀は式部卿(賢勝か)の墾望により、棟別銭・月別山手・日役・陣夫以下の賦課権を留保した上で、名塩村と木下(このもと)(木元)を教行寺に寄進しており、名塩に対する同寺の支配権は一層強化された。ただし年未詳五月の有馬則綱書状(同文書)では、名塩寺内は則綱自身の出陣に際して人夫三人と毎日二人の杣夫を、また城(三田城か)普請の際には人足五八人を年に一度出すことを命ぜられている。天正元年(一五七三)九月五日には有馬氏の家臣とみられる芦田吉則が、教行寺に対し名塩村寺内を安堵している(同文書)。同六年一二月には播磨出陣中の羽柴秀吉から名塩村に対する軍勢の乱暴狼藉や放火などを禁止する禁制が出され、また翌七年三月には織田信長から逃亡農民の還住が命ぜられ、すぐに戻らない者は以後の帰住を認めないこと、信長勢人夫の通行妨害に対しては処罰するなどを定めた掟書が下されている(以上、名塩村文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報