向原村(読み)むかいはらむら

日本歴史地名大系 「向原村」の解説

向原村
むかいはらむら

[現在地名]赤碕町八幡やわた

下市しもいち村の南に位置する。「むかいばら」ともいう。拝領高は三〇九石余、本免は四ツ一分。竹運上銀二九匁を課されており(藩史)、野崎氏・山田氏・荒木氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高三五〇石余、竈数二五。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三七四石、竈数三一。船上せんじよう山中の草刈場をめぐって、下市村などとともに羽田井はたい(現中山町)など中山谷なかやまだに一二ヵ村を相手どって、享保六年などに相論を起こしている(在方諸事控)。明治一〇年(一八七七)下市村と合併して八幡村となった。


向原村
むこうばるむら

[現在地名]久住町有氏ありうじ 向原

石原いしわら村の東、大船たいせん山南東麓、ひや川上流域右岸に位置する。正保郷帳に村名がみえ、朽網くたみ郷に属し、田高六三石余・畑高四三石余、水損所とある。弘化物成帳では有氏組のうち、村位は上、免四ツ五分、田一七七石余(一六町八反余)・畑一〇六石余(一六町七反余)、屋敷四石余(四反余)で、開田四石余(二町四反余)・開畑一四石余(二九町六反余)がある。旧高旧領取調帳では高二九一石余。正徳元年(一七一一)以前の切支丹死亡類族一七人(「朽網郷切支丹類族改帳」武藤家文書)


向原村
むかいはらむら

[現在地名]西会津町奥川元島おくがわもとしま

杉木すぎのき峠を境に杉山すぎやま村の東に位置し、奥川を挟んで南は下町しもまち村。杉木峠を越える越後街道脇道の一、奥川通が通る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に向原とみえ、高七九石余。寛文五年(一六六五)の「吉田組風土記」では高五八石余、免二ツ六分七厘、反別は田方二町七反余・畑方四町一反余、家数三(竈数五)、男一一・女一二、馬一。綿役銀七匁五分四厘余・役漆木六六六本などを負担していた。


向原村
むこうばるむら

[現在地名]大野町北園きたぞの 向原

北園村の南、東流する向原川流域にある。正保郷帳に村名がみえ、田高三〇石余・畑高一二八石余、一万田いちまんだ郷に属し、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高二八八石余。安永七年(一七七八)には直北組に属し、同組大庄屋伝左衛門の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


向原村
むかいのはるむら

[現在地名]挟間市向原 向原

なか村の東にある。天正七年(一五七九)八月吉日の阿南庄狭間南方四百貫分覚(甲斐守文書)に「向原村」とみえる。江戸時代を通じて府内藩領で、中郷下市組に属した(府内藩記録)。正保郷帳に村名がみえ田高一九石余・畑高五七石余、挟間庄に所属。


向原村
むかいはらむら

[現在地名]勝田町大町おおまち

大町村の北、梶並かじなみ川左岸に立地。古く大町下村と称し,大町村の内であったが分村、元禄一〇年(一六九七)向原村と改称したという(東作誌)。同年の美作国郷村帳に向原とあり高一八八石余。寛政四年(一七九二)の美作国中領地分では向原村とみえ上野沼田藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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