デジタル大辞泉
「長井雅楽」の意味・読み・例文・類語
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ながい‐うた【長井雅楽】
- 幕末の長州藩士。名は時庸。幼名与之助。通称、隼人、右近、のち雅楽。藩主毛利敬親に開国、公武合体を建白したが、木戸孝允ら藩内尊攘派の反対にあい失脚、自刃を命じられた。文政二~文久三年(一八一九‐六三)
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長井雅楽
没年:文久3.2.6(1863.3.24)
生年:文政2.5.1(1819.6.22)
幕末の長州(萩)藩士。長州藩公武合体運動の推進者。4歳で父を失う。藩校明倫館に学び,天保8(1837)年藩主毛利敬親の小姓役,嘉永3(1850)年奥番頭格に進み明倫館内用掛,翌4年世子毛利定広の守役,安政5(1858)年直目付となる。直目付は藩主直属。藩政全般を監査し藩主に上申することが職務である。折からの安政の大獄で吉田松陰が江戸に護送され処刑された。これを阻止しなかったとして松陰門下生の怨恨を招く。文久1(1861)年3月,公武合体の必要を論じた建白書を提出,採用され藩論となった。対外方針を海外雄飛に定め,朝廷がこれを幕府に命じれば公武合体はなる,これが論旨で航海遠略策という。同年5月藩命で上洛,議奏正親町三条実愛に面会し入説。朝廷は海外雄飛論に共鳴してこれを受理,幕府への工作を命じた。6月江戸に赴き老中久世広周・安藤信正に入説,幕府は航海遠略策が開国の状況を肯定しているとみて受理した。藩論を朝廷に入説して勅許を得,天皇の威信を背景に幕府に実行を要請する,この運動様式は島津久光の公武合体運動,長州・土佐藩の尊王攘夷運動に受け継がれた。 翌文久2年1月中老格に進む。同年4月島津久光の率兵上洛があり,劣勢に立たされた。加えて松下村塾門下生からの攻撃があり,周布政之助,宍戸九郎兵衛など他の重役との対立が生じた。朝廷から建白書中に謗の文言があるとの指摘を受け同年5月待罪書を提出,慎に処せられた。藩論を攘夷に転換した長州藩政府は,切腹の処分案を決定,これに従い翌年2月6日自刃。辞世の詩,「君恩に報いんとして業いまだ央ならず 自羞す四十五年の狂 即今成仏は予が意に非らず 願わくは天魔を帥いて国光を輔けん」。<参考文献>『長井雅楽詳伝』
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長井雅楽
ながいうた
(1819―1863)
幕末長州藩の政治家。名は時庸(ときつね)、雅楽は通称。初め小姓(こしょう)役につき、1858年(安政5)直目付(じきめつけ)役の要職に抜擢(ばってき)された。国内で外交をめぐる政争が熾烈(しれつ)となった61年(文久1)公武合体と海外進出、積極的開国策のいわゆる航海遠略策を建言した。これは、長州藩の藩是として採用されるところとなり、さらに朝廷や幕府への遊説を命じられ、優れた弁舌を駆使して周旋にあたりほぼ朝幕の了解を得るに至った。翌62年正月、功により中老格に列す。しかし藩内改革派や久坂玄瑞(げんずい)ら尊攘(そんじょう)派志士の反対が激化し、また島津久光(ひさみつ)の率兵(そっぺい)上京により、その幕府に近い路線は破綻(はたん)し、藩是は撤回され、雅楽は職を免ぜられた。翌文久(ぶんきゅう)3年2月6日、萩(はぎ)の自邸にて切腹を命じられた。
[井上勝生]
『中原邦平編述『長井雅楽評伝』(1979・マツノ書店)』
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長井雅楽 (ながいうた)
生没年:1819-63(文政2-文久3)
幕末の長州藩士で,公武合体派。名は時庸,通称は隼人。家禄300石の大組(馬廻格)長井家の長男(未成長相続のため半高削減)。〈知弁第一〉といわれ,直目付として長州藩政を主導した。1861年(文久1),長井が起草した〈航海遠略策〉が藩是となり,その公武合体策と開国策を内容とする方針をもって,全国政局の周旋にのりだした。長州藩が全国政局に発言した最初である。しかし藩内の尊攘派がこの方針に反対し,藩是を転換させたため長井は退けられ自刃を命ぜられた。
執筆者:池田 敬正
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長井雅楽【ながいうた】
幕末の公武合体論者。長州萩藩士。名は時庸(ときつね),通称は隼人(はやと)または右近。1861年《航海遠略策》で積極開国を基本とする公武合体を主張,それが藩是となり公武の間を周旋。しかし薩摩(さつま)鹿児島藩の台頭,尊攘派の反対による藩論の転換で孤立,自刃を命じられた。→開国論
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長井雅楽
ながいうた
[生]文政2(1819).5. 萩
[没]文久3(1863).2.6. 長門
幕末の長州藩家老。名は時庸。長州藩の名門に生れ,早くから知弁をもって聞えた。小姓から奥番頭に進み,安政5 (1858) 年5月直目付。開国と公武合体を提唱し,江戸幕府の依頼を受けて政治的対立を深めた朝幕間の和解に努めた。文久1 (61) 年5月準備工作を整え,同年 12月藩主とともに江戸へおもむいて老中久世広周と会見し,翌2年老中格となった。長井の意見は「航海遠略策」にみられるように,いったん開国し,国力を統合してのち攘夷にいたろうとするものであったが,藩論が攘夷に傾くとともに失脚。また,朝廷からも建白書中の言辞をとがめられて,帰藩後,切腹を命じられた。
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長井雅楽 ながい-うた
1819-1863 幕末の武士。
文政2年5月1日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。安政5年直(じき)目付,のち記録所役もかね藩政を主導する。建言した公武合体策と開国策からなる「航海遠略策」が藩の方針となったが,尊攘(そんじょう)派の反対のために失脚,藩命で文久3年2月6日自刃(じじん)した。45歳。名は時庸(ときつね)。通称は与之助,隼人,右近。
【格言など】君がため捨つる命は惜しからで只思はるる国の行くすゑ(辞世)
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長井雅楽
ながいうた
1819〜63
幕末の政治家
名は時庸。通称隼人。長州藩士。1861年積極的開国論である航海遠略策(公武和合・開国進取)をもって藩論を代表し,公武間を周旋した。しかし藩論が尊王攘夷論に転換したため失脚して自刃。
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長井雅楽 (ながいうた)
生年月日:1819年5月1日
江戸時代末期の長州(萩)藩士
1863年没
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