和田豊治(読み)わだ・とよじ

朝日日本歴史人物事典 「和田豊治」の解説

和田豊治

没年:大正13.3.4(1924)
生年:文久1.11.18(1861.12.19)
明治大正期の実業家。豊前国下毛郡(大分県)中津町生まれ。中津藩士和田薫六と幸の長男。慶応義塾卒。明治18(1885)年に渡米し日本雑貨を扱う甲斐商店サンフランシスコ支店などに勤務。24年帰国後,日本郵船を経て25年三井銀行に入り,26年同行傘下の鐘淵紡績会社東京本店支配人に就任したが,旧友の同社兵庫支店支配人武藤山治との確執により33年鐘紡支配人を退き,外国出張後三井家も辞職。34年1月日比谷平左衛門らの懇請により,苦境にあった富士紡績に転じた。35年度上半期に赤字を解消。39年には富士紡績と東京瓦斯紡績の合併により富士瓦斯紡績が成立,同社を全国有数の紡績企業に育てた。大正5(1916)年同社の社長に就任し終生その地位にあったのみならず,紡績業界の指導者のひとりとなった。 日露戦後からは豊国銀行,九州水力電気,京王電気軌道,中日実業,日本郵船,東洋製鉄,白木屋呉服店,日華紡織など多数の企業の創立・運営・整理にかかわるようになり,第1次大戦期ごろからは米価調節調査会,経済調査会,臨時国民経済調査会,臨時産業調査会,帝都復興審議会の各委員,日本工業倶楽部専務理事,日本経済聯盟会常務理事などを歴任し,渋沢栄一に続く「財界世話役」として重要な役割を果たした。11年貴族院議員勅撰。関東大震災後,富士瓦斯紡績の復旧に尽力するなかで健康を損ね胃癌のため死去。大正7年の一部と同10年から11年春ごろまでをカバーする日記の記載は詳細であり,超人的な活動を生き生きと伝える。<参考文献>喜多貞吉編『和田豊治伝』,小風秀雅他編『和田豊治日記』

(阿部武司)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「和田豊治」の意味・わかりやすい解説

和田豊治
わだとよじ
(1861―1924)

実業家で代表的な紡績人。豊前(ぶぜん)国(大分県)中津藩の下級武士の家に生まれる。慶応義塾卒業後、1885年(明治18)武藤山治(さんじ)とともに渡米。1891年帰国、日本郵船神戸支店勤務を経て翌年、中上川(なかみがわ)彦次郎の紹介で三井銀行に入る。1893年、当時三井傘下の鐘淵(かねがふち)紡績(のちカネボウ)に転じ、本店支配人として活躍し、兵庫工場長であった武藤山治とはライバルの関係にあった。欧米視察より帰国後、1901年(明治34)富士紡績に迎えられ、専務取締役として不振の極にあった同社の再建に努力、1916年(大正5)合併後の富士瓦斯(ガス)紡績初代社長となる。没するまで同社の最高経営者で、日本工業倶楽部(クラブ)の創立をはじめ、日本経済連盟などの産業諸団体で活躍した。鐘紡の武藤山治と並んで紡績業界の巨頭といわれた。

[加藤幸三郎]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「和田豊治」の意味・わかりやすい解説

和田豊治
わだとよじ

[生]文久1(1861).11.18. 大分,中津
[没]1924.3.4. 東京
実業家。中津藩の儒者の家に生まれ,初め医師を志したが,慶應義塾に入り福沢諭吉の教えを受けた。卒業後アメリカに渡り,サンフランシスコの甲斐商店で実務のかたわら苦学。 1891年帰国,中上川彦次郎の紹介で三井財閥に入り日本郵船に勤めたが,1893年鐘淵紡績支配人となった。 1901年富士紡績の専務取締役に迎えられ,経営の立て直しをはかって 1916年社長に就任,武藤山治とともに日本紡績業界の巨頭といわれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「和田豊治」の解説

和田豊治 わだ-とよじ

1861-1924 明治-大正時代の実業家。
文久元年11月18日生まれ。アメリカ留学後,日本郵船に入社。のち三井銀行,鐘淵(かねがふち)紡績などに勤務。明治34年経営不振の富士紡績に専務としてはいり同社を再建。大正5年合併で社名変更後の富士瓦斯(ガス)紡績社長となった。貴族院議員。大正13年3月4日死去。64歳。豊前(ぶぜん)中津(大分県)出身。慶応義塾卒。

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