唐川村(読み)からかわむら

日本歴史地名大系 「唐川村」の解説

唐川村
からかわむら

[現在地名]高月町唐川

東高田ひがしたかた村の東に位置し、北部は湧出ゆるぎ山の南麓丘陵、南部はあか川流域平地。湧出山は万木ゆるぎ山とも書き、一夜にして湧出したと伝え(輿地志略)、湧出山古墳群がある。近年まで条里遺構がみられ、はちつぼの地名が残る。中世には富永とみなが庄に含まれ、応永二九年(一四二二)八月六日の富永庄地下人連署定損請文案(井口日吉神社文書)に「唐川」の沙汰人百姓正秀の名がみえる。永禄一三年(一五七〇)三月一二日の浅井久政下知状(領家文書)によれば、久政は「唐川」から人夫を徴発している。長照ちようしよう寺は湖北十ヵ寺の一ともいわれ、本願寺顕如・教如の指揮下、浅井長政らと通じ織田信長に対抗した(長照寺文書)


唐川村
からかわむら

[現在地名]但東町唐川

三原みはら村の北、太田おおた川の右岸に位置し、集落は出石・宮津道沿いに発達。唐河とも書いた。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図には出石城下(現出石町)から谷山たにやま川沿いに進み、八坂はつさか(現同上)奥矢根おくやねを経て当地で出石・宮津道(丹後道)に合流する山道(奥矢根道)が描かれている。鰺山あじやま峠越の道が開かれるまで、この山道が出石藩主の参勤交代路であったと伝える。また当地から北上して円城寺えんじようじ峠を越え、丹後国熊野くまの市野々いちのの(現京都府久美浜町)を経て同郡久美浜くみはま(現同上)に至る道が通じていた。


唐川村
からかわむら

[現在地名]平田市唐川町

別所べつしよ村の西方、唐川川上流の山中に位置する。辛川とも記し、北西猪目いのめ浦。平安末期、「国中一之伽藍」と称された鰐淵がくえん寺が地内に建立された。同寺は一四世紀半ばに別所に移転するが、以後も別所と合せて同寺の寺内と位置付けられていた。天文一二年(一五四三)六月二八日の鰐淵寺領書立(鰐淵寺文書)で鰐淵寺に対して「別所・辛川室役、紺役、其外諸課役」などが免除されている。


唐川村
からかわむら

[現在地名]菊陽町辛川からかわ

上津久礼かみつくれ村の南、白川中流の左岸に位置する。字上屋敷・中屋敷と下屋敷を中心とする集落の井口いぐちとからなり、いずれも白水はくすい台地が白川左岸の低地へ下降する緩い北向斜面の末端部に立地している。慶長一三年(一六〇八)加藤清正築造といわれる馬場楠ばばぐす井手が東西に貫流し、南部の字桃尾ももお南郷なんごう往還の跡が残る。

建武三年(一三三六)一〇月九日の小代重峯軍忠状(小代文書)に「唐河」とみえ、同年八月一八日北朝方今川助時らと南朝方菊池武敏との間に合戦が行われた。


唐川村
とうのかわむら

[現在地名]唐津市とうかわ

竹木場たけこば村の西方に接し、杉野浦すぎのうら道沿いの上場うわばにある。村内は上場特有の緩やかな起伏の丘陵地で、山野が大半を占める。松浦川支流の成淵なるふち川上流、おお川と杉の平すぎのひら川が南西に流れ、村の中央で杉野浦道から切木きりご(現東松浦郡肥前町切木への道)が北西に分れる。

慶長絵図に「唐野川」とあり、正保絵図に「唐川村」と記す。文化年中記録に畝数五町九段二畝一八歩半とある。村内の田島たじま神社は寛政六年(一七九四)の勧請で、村落の中にある一群の石仏は泣きびす観音とよばれている。


唐川村
からかわむら

[現在地名]岩美町唐川

小田大谷おだおおたに村の南西に位置する。もとは左近さこ(現福部村)に属したという(因幡志)。正徳―享保年間(一七一一―三六)大坂おおさか村の者が新開地を開き定住、宝暦八年(一七五八)には下札も分けられ、領内限りで一村となっており、天保五年(一八三四)には大坂村新田として届出された(安政五年村々生高竈数取調帳)。「因幡志」によれば高二〇石余、家数四。本免は三ツ五分。前掲安政五年(一八五八)の取調帳では生高二三石余、竈数七。文久元年(一八六一)から明治六年(一八七三)にかけて当村の小倉勝次郎が村の南東奥に大沢おおさわ池を造成して、左近まで全長約五〇〇間の用水路を設営、唐川・左近両村に田一三町五反余・畑二反を開墾した(「岩美郡史」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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