四條畷の戦い(読み)しじょうなわてのたたかい

精選版 日本国語大辞典 「四條畷の戦い」の意味・読み・例文・類語

しじょうなわて【四條畷】 の 戦(たたか)

  1. 正平三年(一三四八)、四條畷で南朝軍の楠木正行と足利方の高師直との間に行なわれた戦い南朝方が敗れ、正行は弟の正時らと自刃

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「四條畷の戦い」の意味・わかりやすい解説

四條畷の戦い
しじょうなわてのたたかい

1348年(正平3・貞和4)正月5日、南朝方の楠木正行(くすのきまさつら)・正時(まさとき)らの軍と、室町幕府方高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)らの軍との河内(かわち)四條畷(大阪府四條畷市)における戦い。47年(正平2・貞和3)以来紀州などで蜂起(ほうき)する楠木軍に対し、細川顕氏(あきうじ)、山名時氏(ときうじ)らが討伐に向かったが失敗。驚いた幕府は、その年の暮、高師直・師泰、佐々木高氏(導誉(どうよ))などの率いる大軍を送り、吉野鎮圧を目ざそうとした。一方、楠木軍も、死を決して戦いに臨んだといわれ、『太平記』には、正行が、後村上(ごむらかみ)天皇に決別し、「返らじと兼ねて思へば梓弓(あづさゆみ)なき数にいる名をぞとどむる」という句を残して出撃したと記されている。しかし、幕府軍8万、楠木軍3000ともいわれる戦いは、正行以下多くの武将を失った南朝方が大敗した。この戦いにより、勢力回復を図る南朝方は大きな打撃を受け、師直はさらに吉野へ進軍。天皇は賀名生(あのう)に逃れた。

[奥富敬之]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「四條畷の戦い」の意味・わかりやすい解説

四條畷の戦い
しじょうなわてのたたかい

南北朝時代,南朝方の楠木正行 (まさつら) らと,足利方の高師直 (こうのもろなお) らとの四條畷付近における戦い。正行らが河内南半分を押えたのを聞いた足利尊氏は,正平2=貞和3 (1347) 年に細川顕氏,山名時氏らに命じて正行を攻撃させたが敗れた。そこで翌年1月,高師直,師泰を将とする大軍に吉野の皇居を襲わせようとした。師直は,河内四條畷,飯盛山などに布陣した。南朝方は総大将四条隆資が飯盛山を攻撃して牽制し,楠木正行,正時兄弟と和田高家は,精兵三千余騎を率いて四條畷から師直の本営を突いた。この作戦は成功したが,後陣を佐々木道誉に襲われて敗れ,正行らは戦死した。師直は勝ちに乗じて吉野を陥れ,後村上天皇は賀名生 (あのう) に逃れた。 (→観応の擾乱 )

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